ひとり立つ

腰のまがった老婆が長靴を引きずるようにして船着場に出てくると
そこに屯していた海猫がいっせいに飛び立った。
空には重い雲が折り重なるように広がっていた。

黒部漁港から黒部川に沿って、車を走らせた。
愛本を過ぎて宇奈月温泉に続くトンネルをくぐると、突然雪が降り出した。

車を停めて黒部川を覗くと、そこに線路が走っていた。
車に戻ろうとすると、トンネルの中から警笛が聴こえ
電車がゆっくりと通り過ぎて行った。


高い場所に登れば、黒部扇状地が見渡せるかと思ったが、
春も近いというのに雪は思いのほか深く、山に上がっていく道は閉鎖されていた。

黒部川は、かつてはどうにも手に負えない暴れ川だった。
氾濫した水は扇状地を水浸しにするだけでなく、地下に伏流し、作物を壊滅させてきた。
 そのうえ、黒部川の源流は北アルプスの中央に位置する標高二九二四メートルの鷲羽岳で、
富山湾までの距離はわずか八五キロなのだ。
 明治時代に治水工事の指導のために来日した外国人技師が、これは川ではなく滝だと言ったという。
だから川の氾濫は、田園や畑を水で溢れさせるだけでなく、
そのあまりの冷たさで作物をすべて殺しつづけることになった。
 この難題を劇的に解決したのは、約十年間にわたってつづけられた「流水客土」という方法だった。
黒部川の上流から粘土や泥を大量に流しつづけると、急流でそれらは下流へと落ちていき、
氾濫と一緒に扇状地を覆う。暴れ川の性質を利用して、米造りに適した土で扇状地全体を改良したのだ。
 同時に地下に伏流していた水は、良質の天然水として湧き出て農家に恩息をもたらし、
富山湾プランクトンを育てて漁場を豊かにした。
   宮本輝『いのちの姿』 「田園の光」より

いのちの姿

いのちの姿

富山は海の近くまで巨大な山々が迫り、平野部は狭い。
海から数km〜数十km山側に入っていくだけで、冬は雪で完全に閉鎖されてしまう。
黒部川のみならず、ほとんどの川は暴れ川として下流の人々の暮らしを脅かした。


  富山県HPより http://www.pref.toyama.jp/sections/1711/mizu/shirou/oishisa.html

この恐るべき傾斜を見れば、富山の川を見て、滝だと言った技師の言葉も納得できる。
急流であるから水は澱まない。常に澄みきった水が流れている。


人間の知恵と行動が農業にも漁業にも多くの恵みをもたらしたという歴史を
この本を読むまで知らなかった。
ダムや橋のように形には残らないけれど
泥まみれになって闘った人々の姿を思い浮かべると、胸が熱くなる。


そして、この道を通られたであろう宮本先生が、田園風景と少年時代の富山での思い出から着想された小説
『田園発 港行き自転車』が間もなく発刊になる。

田園発 港行き自転車 (上)

田園発 港行き自転車 (上)

田園発 港行き自転車 (下)

田園発 港行き自転車 (下)

富山にはほとんど縁のなかった自分が、こうして出張で宮本先生の第二の故郷である富山に何度も通い
少年時代からの先生の足跡を追っていけるということは、この上ない幸せである。
2年前に富山に来てから既に訪問回数は、25回ほどになる。
先生の富山時代は、貧しく切ない思い出が多かったはずであるが...
たった一年の富山での生活が少年の心にもたらした影響は、あまりにも大きかったのである。


昼前に魚津...そして砺波と打ち合わせにまわり、庄川に沿って富山駅に戻る途中
土手の上の道から、裸木の姿が見えた。
道路脇のスペースに車を停めて、土手を降りると...
そこに一本の木が川の流れに完全に浸った状態で立っていた。
どうして、こんなところに生えてしまったのか...

川は浅いようであるが、水の流れは早い
春本番ともなれば、山々から注ぐ冷たい雪融け水は怒涛のごとく押し寄せるであろう。
上流から流れてきた漂流物がぶつかってくることもあるに違いない。
そんななかで、倒れることもなく腐ることもなく生きてきたのだな。

そのいのち姿が、ひとりの人間のように見えてきて
その一本の木が、川底で発芽してから成長していく様を心に描いてみた。
どんなに厳しい場所であっても、根を張ってしまった以上、逃げることはできない。
誰に助けてもらうこともなく、誰に見られることもなく、ひとり闘ってきたのだ。
そして、寿命が尽きるまで 一瞬たりとも闘いを止めることなく、ここに立ち続けていくのだ。
川上に向いて立つ彼の視線の先には、雄大で美しい立山連峰が連なっていた。


偉大なものを見上げながら、寒風に雄々しく立つ勇者の成長していく姿は
胸のなかで、自分に勇気を与え続けてくれた。


土手を上がって振り返ると、彼が一瞬こちらを向いて微笑んだような気がした。
春になったら、また逢いに来よう