おそろしく長い純白のドレス...バタ・デ・コーラを引きずったバイラオーラ(ダンサー)が
苦悶とも恍惚ともつかぬ表情で舞っていた。
呻くようなカンテ(歌)...激しいパルマ(手拍子)とサパテアード(靴音)
生きることの苦しみと歓びが、舞台の上で激しく交差し、響きあっていた。
「フラメンコはフラメンコ。
いつだって痛みなんだ。わかるかい?
愛の場合だって、愛だってその奥底では苦しみだ。全ては痛みと歓びなんだ。わかる?
その人がどうとって、どうやりくりするかなんじゃないかと思うんだ。違う?
みんなそうだろう、みんなこの感情をもって生まれてくる。
その知識を、いや知恵といった方がいいな、それでものごとを見て理解するんだ。
違いは、舞台に出て歌うためにはアーティストじゃなくちゃならないってことなんだ。
観客への敬意を、闘牛のように持ってなくちゃね」
カマロン・デ・ラ・イスラ
伝説のバイラオーラ、カルメン・アマジャの人と人生に捧げられたという
ベテランといえども到底コントロールしきれぬほどの長さのバタを引きずりながら、その先頭で舞う彼女の姿は
フラメンコの心そのもののような気がした。
スペインのなかでも、差別され虐げられてきたロマ族(ジプシー)の、それでも生きなければならない人生の
苦悶と闘志と情熱と...そんななかでも花咲く歓びと...
「運命の喉元をしめつけてやる。断じて全部的に参ってはやらない。おお、人生を千倍にも生きられたらどんなにいいか!」
そんな、ベートーヴェンの叫びにも似た声が聴こえる。
『春の夢』
亡き父の借金を背負って、ならず者から身を隠すために借りたボロアパート...
哲之は、電気のつかない真っ暗な部屋で、帽子をかける釘を柱に打ち付ける。
そこに誤って打ち付けてしまった蜥蜴...しかし、釘に身体を貫かれても、その蜥蜴は生きていた。
蜥蜴は、逃れることのできぬ宿命の象徴である。
悪戦苦闘の人生に向き合い、キンと名付けたその蜥蜴と共に生きる哲之にとって
友人の中沢が心酔する歎異抄は、現実逃避を美化した絵空事に過ぎなかった。
「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし、やそうやでェ。
キンちゃん、この言葉の主に、キンちゃんの姿を見せたれ。生き抜いてる姿を見せたれ。
地獄と浄土が別々のとこにあるんやないということを教えたれ。
キンちゃんも俺も、どいつもこいつも、自分の身の中に地獄と浄土を持ってるんや。
そのぎりぎりの紙一重の境界線を、あっちへ踏み外したり、こっちへ踏み外したりして生きてるんや。
キンちゃんを一時間も見てたら、それが判るやろ」
宮本輝『春の夢』
バタは、蜥蜴に刺さった釘であった。
そして僕らの背中に刺さっている宿命であった。
こんなに長いバタがなければ、自由に踊れる
しかし、これがなければ、この踊りは違うものになってしまう。
苦悶をねじ伏せる闘いのないところに、フラメンコはないのかもしれない。
プログラムは目まぐるしく変わっていった。
いつの間にか、彼女が着ていた白いバタは天井から吊り下げられていた。
どの踊りも、理不尽への挑戦であり、苦悩と歓喜の狭間で生き抜く人間の美しいいのちの姿であった。
観客への敬意を闘牛の如く...その情熱が、劇場に満ち、観客のいのちに火を灯していった。
緞帳が降り、渋谷の雑踏に出でも
白い衣装の足元からときおりのぞいた真紅の靴の残像は
しばらく消えずに、激しく床を打ち鳴らしていた。
そのいのちの共鳴を忘れぬように...
雑踏を離れて公園のベンチに座り、
夜空を見上げて自らの運命を抱きしめた。