少年よ、再び歩き出せ。

自身の宿命の重さを嘆き、頭を垂れてとぼとぼと歩いていた自分。
身体も生命も、どんどん縮んでいくような感覚に襲われる。
そんな自分を恥じて、日記を閉鎖した。


しかし
孤立は停滞。何も新しいものは生まれてこない。
部屋の空気は澱み、息苦しくなるばかりである。そろそろ窓を開けないと窒息してしまう。

年若き旅人よ、何故にさはうつむきて辿り給ふや、
目をあげ給へ、常に高きを見給へ。
かの蒼空にまして大いなるもの、何処にあるべしや。
如何に深き淵も、かの光の海の深きにまさらず
如何に高き穹隆もかの天堂の高きに及ばじ。
日は常に彼処にあり。
たとへ何事を忘るるとも、
わが頭の上の限りなき高さを忘れ給ふことなかれ。
常に目を上げよかし。
よし其の為に、足路上の石に躓きて倒るるとも、
其傷の故になんじの生命を危うくすることなからむ。
蛇ありてなんじの脚を噛むとも、其毒遂に霊魂の花までも枯らすには至らじ
けだかき百合の花は下見てぞ咲く。然れども人々よ、よく思へかし、
人の目にふれぬ荒野の百合だにも、其生ひ立つや、茎は皆天を指す也。
                    石川啄木『一握の砂』

以前にも一度引用した名文である。


空を見ていなかったな。
長い間見ていなかったかもしれない。
頭をあげて、高き空を見上げて歩き出さねばならぬ。

石につまずいて倒れようとも、命を落とすことはない。
蛇にかまれて命を落としたとしても、魂の花がかれることはない。
歩くことを止めてしまったときが花の枯れる時だ。


オリンピックの時にNIKEのCMで流れていたコピーをふと思い出す。
「勝つための全部は、すでにキミの中にある」
そうだ、勝つためのすべての要素は、すべて自身の胸中にあるのだ。
そして...すでに...備わっているのだ。
裏を返せば、負けるときも環境や他人のせいではなくて、自身の臆病な生命の中に原因がある。


閉鎖中、多くの友人からメッセージをいただいた。
一つ一つの言葉、一つ一つの心が、胸に突き刺さった。
感謝の気持ちでいっぱいである。この友人たちの心は絶対に忘れない。


「少年よ歩き出せ」は、宮本輝の『ひとたびはポプラに臥す』の一行である。 
http://d.hatena.ne.jp/mui_caliente/20080411
姿はおじさんだけれど...ムイカリエンテは、また歩き出します。