冬牡丹@徳川園

門の前で牡丹が咲いていた...
春のような陽気の名古屋...営業の帰りに寄り道した徳川園
牡丹は5月頃に咲くので不思議に思ったが...これは冬牡丹というらしい。
藁の囲いの中で、色とりどりの花が開いている。
きれいなものだな…





調べてみると、春咲きのものを1月から2月にかけて咲くように、様々な工夫をして咲かせたものらしい。
(ちなみに、寒牡丹は、秋咲きのものを遅めに咲かせるもので、冬牡丹とは違うとか)
先日見たアイスチューリップもそうだが、背丈が低く花も小ぶりである。
人が季節外れに花を楽しみたい...そんな都合で開花時期をずらすのは、いかがなものだろう...
しかし、考えてみれば、観賞用に育てられる花というのは、おおかれ少なかれ、
人間の手によって美しく見えるように加工が施されている。
人間が「雑草」と名付けた植物は、刈り取られ...
球根の植物は、花の盛りに頸を落とされて球根を育て...
樹木の類は、剪定鋏で体中を切り刻まれて、人間の好きな形に誘導され...
それを見て、人は美しいと感じる...
それがいいことなのか...
それに近い考察が、先日読んだ本に出ていたので、引用しておく。
死なないでいる理由 (角川文庫)

ある高名な華道家が花を生ける場に居合わせる機会を得た。
それまで生け花を間近に見たことがなかったわたしは、
ここでも眼を疑うような情景に出逢うことになった。
伊豆の山中から採ってきた古本の孔に、椿の枝から花と葉を毟りとって
花一輪だけ残したものを生ける作品だった。
木を折る、割る、切る、枝を裂く、曲げる、矯める、葉を雀る、
花をちぎる、そして最後は剣山に刺す……。
これでは「生け花」どころか「いじめ花」「殺し花」ではないかと、
こころ穏やかならずおもった。
手塩にかけてたいせつに育てたそのいのちを奪う。壊し、棄てる。
せっかく大事に育てたものをなぜ? 
この問いがずっと胸につかえていたのだが、あるときふとおもった。
わたしたちが日々していることを、これはただ映しているだけなのではないか、と。
わたしたちは、何かを食べないと生きてゆけない。
そのために、家畜として獣を育て、そして殺す。
漁をし、持ち帰った魚を捌く。野菜として育て、そして葉っぱを雀る。
そしてそれらのいのちをおいしくいただく。
  鷲田清一『死なないでいる理由』 いのちをみとどける...花をめぐって

人間は、他の生物を殺すことでしか生きていけない。
鷲田氏は、このいのちをいただくということへの感謝や、食べ残すこと...
つまり命が無駄にされることへの戒めとしてこのような芸道がうまれたのではないかと考察する。


花のはなしからずれるが、いのちを考える意味でもう少し...

人間が食べるもの、それは塩や水を除いては、みないのちのあるものだ。
肉、魚、虫、穀物、野菜、果物。どれもこれも生き物だ。
食べるためには、ときにそれらをしとめ、焼いたり煮たりしなければならないし、
ときにそれらを引き抜いたり引きちぎったりしなければならない。
そして口に入れ、噛み砕いて、呑み込む。
ひとはそのように、他の生き物を殺すことでしか生きつづけられない。
それも一日に何度も。
ひとはじぶんが生きるために他の生命をくりかえし破壊しているということ。
そのとき他の生命は渾身の力をふりしぼって抗うということ。
ひとはその生存のために一つの作業を分かちあい、支えあうものであること。
じぶんという存在がまぎれもない物そのものであり、生まれもすれば壊れもする、
消滅もするということ……。
そういうことのからだごとの体験がことごとく削除されている。
このようにわたしたちの社会は、他のいのちを奪うことでみずからのいのちをつなぐという、
この生の残酷な事実を隠してきた。
が、このことによってじつはもっと重要なものを隠し、
棚上げにしてきたということはないだろうか。
 鷲田清一『死なないでいる理由』 いのちをみとどける...隠されるいのちの姿

映画『おくりびと』でも、葬儀屋のおやじが白子を美味そうに頬張りながら、
おれたちの食べているものは、みんなご遺体なんだよ...というような言葉を吐いたな...
他の生命を奪う上でしか成り立たない人間の生命
それも自然の摂理なのかもしれない。
が、現代社会は、そういうものに目隠しをしてきた。
肉も魚もスーパーに行けば切り身になってパック詰めされている。
それが、いのちを授かっていた生き物であり、死の瞬間はそれに抗ったであろう痕跡は、どこにもない。
したがって、それを食べるとには感謝というものが薄れていく。


日本庭園は、山水を限られた空間に再現することで、自然というものの美しさを愛でるとともに
そこに身を置くことで、人間社会の闘争から一歩離れて、人が自然に還ることのできる空間だと思う。
そこに植えられた植物は、美しくみせるために、斬られ、毟られ、曲げられたものかもしれない。
しかし、その姿を見とどけることで、自然への感謝・生命への感謝を観じなければならないのかもしれない。

白い山茶花

群れから離れてぽつんと咲く水仙

水辺の寒椿


おまけ  その他の写真は、こちら↓
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午後から富山に移動して、夜はひとりで居酒屋「とんぺい」
魚が安くて美味い。