師弟の道

師弟ほど厳粛で美しい人間関係はない。


宮本輝先生が師弟について踏み込まれたのは『森のなかの海』から
そして、『骸骨ビルの庭』『三十光年の星たち』で核心に迫っていく。
かつて、宮本先生のHPの書き込みに、
この3つの作品を「師弟三部作」と勝手に名付けて投稿した。
すぐに、ご本人から返事があった。
「『森のなかの海』を「師弟三部作」に入れていただいて、ありがとうございます」と...


『三十光年の星たち』が文庫化されたので、早速購入して再読...

三十光年の星たち(下) (新潮文庫)

三十光年の星たち(下) (新潮文庫)

ここには、あらゆる「師弟」が描かれている。
芸術の道...職人の道...人間の道...


そのなかのひとつ...
主人公仁志と友人になった虎雄と師の出会いの場面
高校生の虎雄がアルバイトをしていたスパゲティー屋...
ここに訪れた京都の美術骨董「新田」を営む主人が、このスパゲティーに感動し通い始める。
そして、高校生の虎雄との対話のなかで、虎雄の眼を見出す。
高校を卒業して一旦は就職するも、焼き物の魅力を忘れられず「新田」の門をたたく。

きみがぼくの本物の弟子かどうかは、三十年たたないとわからないが、その三十年間を、
きみはただまっしぐらに歩き通せるか。
三十年間、ひたすらこの師匠につかえることができるか。
ぼくにどんなに叱られても、どんなに冷たくされても、三十年間、きみは弟子でありつづけるか。
「新田」の主人は、これまでの優しさはいったい何だったのかと、
ある種の恐怖を抱かせるほどの威しい表情で訊いた。
トラちゃんは、どうして三十年という年月が必要なのかと正直に訊いた。
焼物の分野だけではなく、世の中のありとあらゆる分野において、勝負を決するのは、
人間としての深さ、強さ、大きさだ。鍛えられた本物の人物になるには三十年かかる。
「新田」の主人はそう答えた。あとは自分で考えろ。
これから先、三十年のあいだ、そのつどそのつど、悩んだり苦しんだり、
師匠を疑って反発したり、ときには恨んだりもするだろう。
そしてそのつど、なぜだろうと考えつづけるだろう。
そうやって考えつづけて、あるときふっと、ああそうなのかと自分で気づいたこと以外は
何の役にもたたないのだ。
どの分野にも若くして天才と称される人がいる。
事実、それだけの才能を持って生まれた。
しかし、そのうちの何人が、才能をさらに磨いて大成できたか。
自らの才能を超えた大仕事を、年齢とともに成し遂げていく人間を天才というのだ。
だが多くは、あいつにあったのは若いころの才能だけだったというような年寄りになってしまう。
それはなぜか。「三十年間」に耐えられなかったからだ。
「三十年後」というものに焦点を定められなかったからだといってもいいし、
「三十年間」を途中でどこかで投げ捨てて、うぬぼれていったと言い換えてもいい。
いま、ぼくの店に社員は要らない。
ぼくが、探し求めているのは、日本一の、いや世界一の陶磁器の目利きだ。それ以外の人間は要らない。
そして、ぼくが知る限り、いまはそんな人間はいない。
きみはそのような超絶した目利きになりたいか。
トラちゃんは「新田」の主人の言う意味がよくわからなかった。それなのに、世界一の目利きになりたいと思った。
思った瞬間、体が震えて止まらなくなった。
 震えながら、どうか自分を弟子にしてくれと座敷に額をすりつけるようにひれ伏して頼んだのだ。

師匠が弟子を選ぶのではない。
弟子が師匠を、この人と決めるのだ...
そして、一旦師と決めたら、どこまでもついていく...
これは『森のなかの海』の一場面であった。


自分の三十年を振り返ってみる。
それなりの情熱も、それなりの努力も、それなりの闘いもあった。
しかし、すべてが「それなり」でしかなかった。
師を求め続けての三十年ではなかった。
中途半端な努力は、自分のなかの怠惰やうぬぼれによって流されてしまった。
なんと不毛な三十年であったことか...


今から三十年...
手遅れかもしれない
多分、生きて迎えることはないだろう。
しかし...
今から歩きはじめるしかないのだ。
途中で倒れたとしても...
今から...