森のなかの海

人の気配を感じて、木立の中に目をやった。
萌える緑の中に、仁王像のような形相の杉が立っていた。
急な斜面に傾いで立つその巨体を支える根は
岩盤を包み込むように抱きしめて、大地と一体化していた。


 

彼は、頭上高く運行するぎらつく天体を睨みつけながら
短い夏の陽射しを大きく広げた枝葉から吸い込み
地中深く刺さりこんだ根から水を吸い上げて
その身を養っていた。

 

魚津の客先で昼前に仕事が終わり、そのまま川沿いの道を山側へと走った。
冬は除雪車も入らず、通行止めになる区間に入って数キロ
途中からは徒歩で30分 急な山道を歩いてここに来た。
恐ろしいような急斜面に水平に伸びる木は、雪の深さを物語っていた。



沢にかかる橋を渡ってすぐに、その洞杉は立っていたのだった。
緩やかな斜面に立つ真っ直ぐな杉の木と比べたら、
なんと醜く、そしてなんと雄々しい姿だろう!
あまりの大きさと、厳しい形相に威圧されて近寄れず...
雨の降りだしそうな空を見上げて、また歩き出す。

 

洞杉が所々に立つ道をさらに登った坂の上に
凄まじい形の洞杉が立っていたのだった。


この杉が、果たして一本の木なのか、
何本かの木が絡み合ったものなのかはわからないが、
その姿を見た瞬間に、小説『森のなかの海』に出てくる
飛騨の山奥の、あの大樹を思い出したのだった。

 

 巨木はねじ曲がり、太い幹のなかから藤蔓を伸ばし、
藤蔓はもはや蔓とは呼べないなにか巨大な瘤と化して巨木に巻きつき、
それらはもはや別々のものではなく、見たこともないひとつの生き物として融合しあっていた。
(中略)
 お互いがお互いを包み込んで、そこにはもう生存の争いはなく、足らないものを補い合って悠然と生きている...。
 若木のころは、どちらもが自分の敵であったのに、いつのまにか同化し、
あるいは同化する以外に生きる術はないままに今日に至って、
どこが木々で、どこが藤蔓なのかわからないまでになってしまった...。
 希美子はそんな思いだった。樹木を見て、これほど厳粛な気持にひたったのは初めてのことだった。
 蔓の最も太いところは直径三十センチほどにもなり、巨木の直径は1メートル以上あった。
 希美子は、自分のなかから満ち溢れてくるものがあることに気づき、二、三歩あとずさりした。
 それは、粘りつくほどに性的でもあるし、清潔で無垢な生命力のかたまりでもあったが、
そのどちらもが、希美子に希望を与えた。
 希望というものを、具体的に体内に感じたのも、希美子には初めてのことであった。
    宮本輝『森のなかの海』

ここに根を下ろしたのが彼の宿命だった。
幼木の頃から冬が来るたびに厳しい寒さに凍え、
重い雪に押しつぶされ、枝をへし折られ、幹を捻じ曲げられ、引き裂かれ
身動きもできないような冷たい世界で生きてきた。
成長するごとに次の冬には重圧が増した。
雪に引き裂かれて枝分かれしたのか、寒さに耐えかねて周りの木と絡み合ったのか
凄まじい闘いの跡が、全身にそのまま残っていた。


無数のいのちが、身の回りで生まれては死んでいった。
自分だけ生き長らえばならぬことが辛かった
いっそ死んでしまったほうが楽だと思えた。
しかし、天は死ぬことを許さなかった。

 

恐る恐るその木に近づいて、両腕をひろげても届かない太い幹に抱きついた。
頬にあたる木肌は、硬くそして冷たかった。
木は何も言わなかったが、もう大丈夫だよと言われた気がして
安心感が胸の裡にじわじわと満ちていくのを感じた。

 

そうして、改めて木を見上げる...
1000年のいのち....1000年の苦闘
なんと荘厳ないのちの姿であろうか...



苦闘を制し続けた勝利としか言いようのない姿から受け取ったものは
やはり「希望」であるような気がした。

 

ああ、ここに来てよかった。
またいつか、生きることが苦しくなって
死んでしまいたいような気持ちになったときは、ここに来るのだ。
来れなかったとしても、この木の姿を思い浮かべるのだ。

 

雲が流れ、霧のような雨が降り出して
去りがたい気持ちのまま坂道を降りはじめた
最後に一目、彼の姿を見ておこうと振り返ると
霧に霞むその杉が、森の中で燃え盛る炎のように立っていた。