幸福を見出す人

雪のような真っ白な花が降っていた。
そして、そこだけ時が停まっていた。
その日、僕は初めて白藤を見たのだった。


通り沿いにある塀のない、畑のような広い庭に、その花は咲いていた。
車を停めて写真を撮っていると、庭に出てきた老人に、「入ってきなさい」と声をかけられた。
白藤に気を取られて、気がつかなかったが、その庭には、あらゆる草花や木が植えられていた。

そして、数十年かけて育ててきたという、自慢の白藤の前に立った。
まっすぐに垂れた房が、幾重にも重なる、滝のような姿は、素人目に見ても
相当な手間と時間をかけて剪定してきたことがわかる、美しい立ち姿であった。
むせるような甘い香りが漂い、蜂が羽音を立てて、忙しく飛び交っていた。

写真を撮ろうと思って下から覗きこむ...
その木の姿にはっとした。
節くれだった幹には大きな亀裂が入り、枝も捻じ曲がり...
支柱に支えられながら、やっと立っている。
真っ白な心を支えていたのは、苦闘の軌跡であった。

宮崎かづゑという人を知ったのは、つい最近のことだった。
子供の頃にハンセン氏病を発症し、10歳で家族と引き裂かれ
瀬戸内海に浮かぶ長島の愛生園というハンセン氏病の療養施設に入る。
19歳で右足を切断、23歳で療友の宮崎孝行氏と結婚。
園内の購買部経理担当者等として働いていた夫を主婦として支える。
しかし、その後も両手の指を一本また一本と失っていく。
親しい友人を何人も見送った。
50歳でうつを患うが60歳の頃に回復。
60歳からワープロを覚え、指のない手に棒をくくりつけて文章を書きはじめる。
現在88歳


若松英輔氏の本で彼女の本の存在を知った。

話しても書いても、彼女の言葉はいつも幸福に満ちている。
幸福な人間とは、世間が「幸福」だという条件を作り出した人間ではなく、
どこにも幸福を見出すことができる人間であることを宮崎さんは体現している。
    若松英輔『君の悲しみが美しいから僕は手紙を書いた』

その文章は、若松氏の言うとおり、幸福な文章であった。
プロフィールから想像するような悲惨さはまったく感じられない。

人間であれば、誰しも山あり谷ありであろうと思うんです。私だけ、らい患者だけが特異で、皆様とは大きく違う人生とは思えない。
たしかに苦しみましたが、いまはみんなよかったと考えています。
少年舎時代の経験も私を育ててくれました。あれがあったから、それほど大層な者ではないという自分の本質ものちにわかりましたし、度胸もつきました。
 自分はまだ成長しつづけている樹木のような気がするんです。子供のときのつらかったこと、悲しかったことも全部、肥料になって...。
だから、こわかった寮のおかあさんや先輩たちも、ほんとうはありがたい方たちだったんです。
私は鬼の面を見てこわがっていましたが、鬼じゃなかったんですね。ほんとうなら私は途中で枯れた苗木だったのでしょうけれど、あのときの経験のおかげで育っていくことができたんだと思います。
いきなり強い肥料だったので、縮みあがっちゃいましたけどね。いまだに肥し気がしっかり残っている感じがします。
 療養所には、私なんてとてもとても、及びもっかない立派な方がおられますよ。私はただ家の中をうろうろしていただけで、社会のお役に立つこともありませんでしたが、人生に退屈することもなく生きてきたと思います。
 うつ病は、私にしては長かったですが、いま見ればあれも必要なことだったのかなあと思います。
何かを得るために...。
でも主人には長々と迷惑をかけてしまいました。
一生懸命働いて帰ってくるのに、私は家で寝てばっかりいて、いまでも心苦しく思っているんですけれど、主人は「忘れた」と言ってくれております。
   宮崎かづゑ『長い道』

長い道

長い道

この幹を見て、不意に宮崎さんの言葉を思い出したのだった。
想像を絶するような苦難と闘い抜いた人は、なぜこんなにも清々しいのだろう。
人から差別され、蔑まれ、身体のあちこちを切り刻まれ...
そんな苦闘の軌跡は、いのちのなかに残っているとしても
そのいのちの立ち姿は、どこから見ても凛として美しい。
彼女の「しあわせな人生だった」という言葉は、なんの誇張もない自然な気持ちなのである。
心優しいご主人と、いまもしあわせに島で過ごされているという。
きっとお二人ともいい顔をされているのだろうな...


白い花びらが、ときおり音もなく落ちていた。
甘い香りは、いつまでもそこに漂っていた。