出張から帰った翌朝...カーテンを開けた瞬間、思わず息をのんだ。
小さな庭のフェンスいっぱいに、幾千万の黄檗色(きはだいろ)の花が、
夜明け前の静寂の中で、いっせいに花を開いていたのだ。
それは、手品師の翻した布の下から現れた奇跡のようであった。
縦横に伸びてはしだれていくしなやかな枝は
放物線の軌跡の先で、或は寄り添い、或は絡み合い、或はすれ違いながら
枝いっぱいの花の房を纏って、あるかなきかの微かな風に音もなくなびいていた。
陽が昇りはじめ、フェンスの外側の花が輝きはじめる。
太陽の光が花の上で弾けて、それぞれの花に彩りを乗せていく...
群れ咲くなかで、一輪一輪がそれぞれの想いを抱きしめながら
ひとつのいのちを...ひとつの宇宙を為していた。
「私の中にはたくさんの私がいる。それは百人かもしれないし、五百人かもしれない。
いや千人、もしくは三千人の私があるなら、その三千人を私は生きたい」
宮本輝 『睡蓮の長いまどろみ』
これは空想ではない。
いのちの姿は、きっとこの花のようなものだ。
無数のいのちの姿がひとつのいのちのなかにひしめいている。
法華経のなかで突如出現する宝塔...あらゆる宝で飾られた天を突く壮大な塔には
中心に釈迦・多宝の二仏が並び座り、十界のあらゆる衆生が参集して説法が始まる。
この壮大な比喩が表現しようとしたものは、一人の人間のいのちの姿であった。
地獄も極楽も、仏も魔も...遠い世界にあるのではない。ひとりの人間のなかにある。
美しいものから醜いものまで、清浄なるものから汚れたものまであわせて持って...
それでも、いのちは光り輝いている。
鏡に映る貧相な自分の姿を見ても、宝があるなどとは考え難いが...
この花だって、ついこの前までは、そこにあることも忘れてしまうほど、みすぼらしい裸木だった。
しかし、そんな冬の間に、この無数の美しい花を、このしあわせとしか言いようのない色を
いのちのなかにため込んできたのだ。
自分のいのちにも、こんな花が咲くということは、信じてもいいことなのだ。
太陽の動きにしたがって、花の群れの光と影が動き、花の色も一瞬一瞬変わって行った。
足元に目をやると、鬱蒼とした草の蔭に隠れて咲いていた花が、闇からふわりと浮きあがった。
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雨あがりの朝のモッコウバラ...