母衣への回帰

求めずして得たり...というようなことが、このところ続いているような気がする。
名古屋出張の途中、運転していて突然電話がかかってきた。
個人のスマホが昼間に鳴ることは珍しいので、道路脇に車を停めてみると
ブログを読んでくれている友人からの電話だった。
何か急用かと思い折り返し電話をすると、明日時間はとれないかという
「志村ふくみさんに会えるかもしれませんよ!」
「…え? 何を言ってるんだ?」
世田谷美術館の『志村ふくみ展』のオープニングセレモニーのチケットがあるんですよ。
 知人が招待されたんですけど、急用で行けなくなって、それで...」
その知人の方というのは、志村さんと仕事上でのお付き合いがあり、招待されたらしいのだが
友人は僕のブログを読んでいて、志村ふくみさんの熱烈なファンがいるということを
その方に話してくれていたのだった。

 

志村ふくみさんとの出会いは、去年の4月
やはり、このブログを読んでくださっているkuri206さんがコメントで紹介してくださったことが
きっかけであった。
若松英輔著『生きる哲学』に引用されていた志村さんの生き方に強烈に惹かれ
志村さんの本を読みあさった。
読めば読むほど、彼女の文章の美しさ、美を求める心の深さに惚れてしまい
手仕事への憧れを深くしていったのである。

 

9月に滋賀県立近代美術館で、初めて彼女が染め、織り上げた衣を生で拝見し
雷に打たれたような衝撃を受けた。

 

まさか、ふくみさんに会えるなんて!
出張から帰り、身支度をして、お手紙を書き、土産を何にしていいかわからず
手元のあるペーパーナイフから、一番気に入っている 栃の木の丸みを帯びたものを包んで出かけた。

受付でお手紙とペーパーナイフをお渡しして、会場に入る。
200人ほどであろうか...セレモニーに招待されているのは、ほとんどが関係者やプレス関係に見えた。
それでも、遠慮して後列に座る方々を後目に、最前列中央の席に座った。

本で拝見したことのある、志村さんの娘であり、一番弟子である洋子さんが現れたが
ふくみさんの姿は見えなかった。
洋子さんから、母は体調を崩して今日は楽しみにしていたが出席できない...とのコメント
ふーっとため息をつきそうになったが、あわてて飲みこんだ。

 

志村さんと交流の深いギタリスト村治香織さんがゲストとして登場し、ギターの演奏を数曲
ラジオやCDなどで何度も聴いたことのあるギタリスト村治香織さんの生演奏を、
真正面のたった2メートルくらいの距離で拝聴 素晴らしい!

 

来賓の挨拶の後、志村洋子さんから、ふくみさんの今回の展示にかける想いを伺う。
今回の展示会の図録に寄せたふくみさんの文章に、そのエッセンスは書かれているので、
抜粋を引用しておく

 今から三カ月ほど前、私は一つの作品を織り上げた。
いつものことながら最近は、一つ織り上げるとこれが最後のよううな気がしている。
その時も濃紺の地に白い繋ぎ糸を入れて幾星霜などという言葉が浮んでいた。
昔、母が農家の老女にたのんで、短い糸を繋ぎ合せ、
糸玉にしていつか使ってくれろようにと籠や苧桶にたくさんのことておいてくれた。
 貧しくて糸を買えない主婦が、夫や子供のためにののこり糸を繋いで、
繋いで織ったものを屑織、ぼろ織という。
その裂の天然の美しさに魅了されたのが柳宗悦であり、
その弟子とも言える母や私である。
その糸を私は勿体なくて四十年来、少しずつしか使っていなかった。
併し、この年にして、いつまで織れるだろう。毎回最後と思っていろ身には、
大方のこしてゆかねばならない、と気が付くと思りず苦笑してしまった。
よし、これからはどんどん使おう、と思いたって、繋ぎ糸ばかりで織りはじめた。
予期せね糸の力、線の無尽、織りすすむうちに布が私を圧倒する。
これは私の力ではない。何の工夫もなく、たたひたすらに織る。
作意など入る余地はない。
 それは世に言う襤褸(ぼろ)織である。襤褸とは美しい文字だ。
なぜこんな格調高い字を使ったのだろう。
辞書をひいた。襤褸の意味は、かた、ぼろ、くずとしか書いていない。                                          
私は拍子抜けしていると、すぐ傍に母衣という字があった。
平安の頃か、戦場に大きくふくらませた袋のようなものを背につけて馬にのり、
矢をふせぐためのものであったという。
咄嗟に襤褸と母衣(ぼろ)が結びついた・襤褸は母の衣ではないか。
いささか飛躍した考えかもしれないが、思いはさらに最澄が招来した
「刺柄七条袈裟」に移っていった。
それは死者や行き倒れの人々の衣を洗い清め、
ぼろをあつめて刺していったものがその根本の機緑である。
先年、比叡山で里帰りしたその袈裟を拝見したが、
千余年経つとは信じがたく立ち昇る精気に息をのみ、
畏れ多いことながら世界最高の抽象画をみる気がした。
最低のものが最高のものに昇華する。
それこそ襤褸という字にふさわしいではないか。
  志村ふくみ 『母衣への回帰』より

最低のものを最高のものへ昇華させる...志村ふくみさんの原点は、ここにある。
1926年 柳宗悦が起こした民芸運動のメンバーの中に、青田五良という青年がいた。
後に志村ふくみさんの母 小野豊の師になる人である。
柳が、古市で見つけた貧しい人々の古着の切れ端....丹波布の美しさに魅せられ
中学の教師を辞めて、上賀茂民芸団協団で織物をはじめたのであった。

 京都中の古着屋を漁ったり、丹波の山奥に老婆をたずねて草木で染めることを習い、
いざり機、糸つむぎから、古着を裂いて織るぼろ織まで仝くの独学で、
道なき道を歩みはじめたのである。
屑繭やぼろ裂で青田は美を創造する道をえらんだ。
王朝の都の片すみ、しかも上賀茂社家の白壁の奥でそれがはじまったのである。
屑繭やぼろ裂が絢爛たる能衣裳の展開する雅びの世界に比肩し得る美を創造できるか、
今思ってもそれは全く無謀な企てである。
併し、強情、我慢、青田は体がぼろぼろになるまで織りつづけた。
 その青田の傍で私の母は最初に織物を伝授されたのだった。
柳宗悦のすすめで母は、青田を織物の師として学びはじめたのである。
 「色なき水のさまざまに映し出す色のふしぎ、
明日死んでしまう蝉の羽がなぜあんなに美しく装われているのか」
などと、織の手を休めては語ったという。
(中略)
 併し化学万能の道を逆行し、衰退の一途をたどる手仕事に目をむけ、そこに自己の
芸術的表現を托するには時代が少し早すぎたのか、新しい道への受難は貧困と病ばか
りではなく、なぜかそれを突き崩そうとする世間の眼が青田を苛み苦しめた。
「今はまだ暗い、誰もかよわぬ道だが、必ず誰かがあとから来る。自分は踏台になる」
と言って、三十七歳で亡くなった。
   志村ふくみ『ちよう、はたり』

ふくみさんのお母様はこの道をゆくことを強く望んだが、家庭の事情など困難が幾重にも重なり
道半ばで断念せざるを得なかった。

 

そして、数十年後、奇しくもふくみさんが偶然その道を歩くことになったのであった。
青田五良のいのちは、志村ふくみさんの中に息づいている。
そして、ふくみさんもまた命がけの闘争のなかでいのちの色を紡ぎだし
紬織という庶民の織物を芸術の域にまで高めたことで、人間国宝となった。

 

今回の展示のために母娘で織られたという母衣曼荼羅という大きな織物は
現代の闇に憂いながらも、人類の叡智を信じ、目に見えぬ光を求めて
深い祈りを込めて織られたのである

 

腐りきったような社会だけれど、深い闇の向うに眩い光が潜んでいるのかもしれないと信じて....
襤褸のような自分にも、いのちのどこかに美しい色が隠れているのかもしれないと信じて...
歩いていくしかないのだな

 

挨拶を終えて、会場に向かって頭をさげた洋子さんの
ふくみさんの遺伝子を引き継ぎ、そして草木に手を染めて働くその手を、じっと見つめた。