水の記憶

緩やかな斜面をあがる途中...ふと振り返ると、
森の背後には藍鼠色の穏やかな海が雨に煙っていた。


夢の余韻をかかえたまま、田園の広がる扇状地の田園の道を走っていった。
森はもうどこにも見当たらなかった。


富山湾の海辺に湧き出る水は100年前に浸透したものだという...
100年の闇 100年の眠り 100年の浄化 100年の豊饒
そうか...
あの森は、水の記憶なのだ
長い長い眠りから覚めた水が
分子のなかに刻まれた美しい森の記憶を、そこに映し出したのだ。
そうでなければ、あんなにも深い色の森が
海辺になどできるわけがないのだ。

根元が大きく湾曲した伏条更新の杉は、雪の重さでなぎ倒された幼木が
それでも大地に新しい根を張って立ち上がった、厳しい冬の痕跡である。
立山連峰の山々の凄まじい冬を生きぬいてきた、いのちの姿である。


不意に山の水に触れたくなって
冬の間は雪で通行止めになる川沿いの道をのぼっていった。

山が迫り、谷が深くなる...
橋の上から覗き込むと、水浅葱の雪解け水が轟々と音を立てて流れていた。


翡翠を溶かしたようなその色は、手にすくえば消えてしまう幻の色。
高山の冬を越え、春の新緑を映しこんだこの水は
或は山を潤し、或は田園の作物を育み、或は人々の生活をささえ、或は海に注いでいく。

大地に浸み込んだものは、そして長遠な眠りにつくのだ。
眠りが醒めた頃には、もう僕はこの世にいない。
そのとき、あの海辺の森は残っているだろうか...


道端にエゴノキを見つけたが、花は終わって実がついていた。
辺りにも花びらは落ちていなかった。
幻だったのかな....あの森で見た花は...


それでも、目を閉じると暗い森のなかにはいまも花が降り続けていた。


希望が途絶えて、薄暗いトンネルの中を歩いているような10年だった。
年齢とともに光はますます失せていくように思われた。
前途には花咲く道など見えなかった。
しかし...
花は降っていたのだ。


道の途上で出会った人々が、その人々の想いや言葉が...
ああ、あれもこれも...すべて花だったのだ...
花は降っていたのだ。


奇跡の森が、渾身のいのちで教えてくれたこと...
花は降っているのだということ
そして、道行く人に花を差し出せる自分にならねばならぬということ...



不意に風が吹いて川岸の咲いていたタニウツギの花を散らした。
スローモーションのように落ちて行った花は
清流にのみ込まれて、下流へと消えていった。