春立つ風

林道から出てその谷に出たとき、思わず大きなため息をついた。
山に囲まれた集落には、見渡す限りの梅の花が拡がっていたのだった。


新しく開通した新東名のインターを降りた後、どこで道を誤ったのか...
途中から急に険しい山道に入ってしまった。
迷い込んだその先に、こんなにも美しい景色に出会おうとは、なんということか...

湧水のように澄み切った清流を囲むように、石積みで整地してつくられた村は、
どこまでも続く梅畑のなかにぽつりぽつりと家が建っていた。
桃源郷というのは、きっとこんな風景からうまれた言葉なんだろうな

梅の香漂う梅畑の小径を縫って、小川の畔に降りて行く。
春めいた風が谷を渡り、やわらかな陽射しが川面で揺れる。

袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ   紀貫之

夏の日に袖を濡らして手で掬った水が冬の間に凍ったのを
立春の今日の風が溶かしていくのか...


そんな春の歓びは、こんな山里でしか味わえなくなってしまったな...

対岸の梅畑で、赤銅色の顔をした老人が梅の手入れをしている。
厳しい冬に耐えぬいて、いっせいに開いたいのちを愛でるように
眩しげに花を見上げる眼差しがやさしい。
何十年という歳月を、梅畑しかないこの山間の村でこの梅と共に生きてきたのであろう...
しあわせな時間が、ゆっくりと流れていく。


自然の懐で、自然を壊さず、必要なだけの場所を借りて...
こうしていのちの恵みをいただきながら生きている。
いのちを慈しみ、いのちを育むこと...
それ以上に大切なことは、なにもないのだ。


梅の花が咲き誇る、山間の名もなき集落に、やがて夜の帳が降りて星が瞬く。
星も嫉妬するほどの、銀河のごとき梅の花々は闇の中でますます匂い立ち
人々の眠りを包んで行くのである。