白洲正子『美は匠にあり』

農家の建物を改造したというその建物には、華美なものはひとつもなかったが
本当の贅沢とはこういうことなのだろうなと思えた。
武相荘(ぶあいそう)』白洲次郎・正子夫妻が昭和15年からずっと住んでいた家である。
自宅から30分もあれば行ける距離に、こんな場所があったとは...


白洲正子という名前は、ずっと以前から知っていたが、本を読んだことはなかった。
志村ふくみさんの本に登場したことで興味を持ち、本を読んだ。
そして、検索しているうちに、この建物が公開されていることを知り、行ってみたくなった。

昭和15年といえば、このあたりは住宅などほとんどない農村地帯であったはずで
小田急線は通っているが、不便な場所だったはずだ。
白洲次郎は、政界の中枢にいながら、一旦そこから身を引いてここに居を構え
農作業に勤しんでいたようだ。


白洲正子はとにかく行動派で、全国を旅しながら、多くの文化人と交流し、
それを文章に残してきた。


武相荘のなかに陳列された、値段もつけられないような見事な家具や焼き物や着物などは
主を失って寂しそうに畳の上に並べられ、書斎は、先程まで彼女がそこで書き物をしているように残されていたが
それらを観ている間にも、彼女の文章の片鱗が、それらの部屋から匂い立ってくるような気がした。


青山二郎の解説について) 
むつかしいのは彼が何もしなかったからで、取りつく島がないのである。
 装釘もやった。絵も描いた。文章も書いた。
陶器についても語ったが、陶器をいかに愛したかということは解っても、
その美しさを、どのようにして発見したか、それについては黙している。


 「優れた画家が、美を描いた事はない。優れた詩人が、美を歌ったことはない。
それは描くものではなく、歌い得るものでもない。美はそれを観たものの発見である。創作である」


 この言葉は重要である。美とは本来ありもしないものなのだ。もしあるとすればそれを発見した個人の中にある。
芸術家はたしかに美しいものを作ろうとするが、それは美しいものなのであって、美そのものではない。
そんなことを頭の隅っこで考えながら仕事をしても、美しいものなんか出来っこない。
一つのことに集中し、工夫をこらしていれば、よけいなことを考える暇はない筈である。
ずい分下手な説明だが、何もかも忘れて一心に仕事に打込んでいる人なら、こんなことは自明のことで、人に語れるものではないだろう。
 小林秀雄は『当麻』の中の世阿弥の「花」についてこういった。
 「美しい花がある、花の美しさといふ様なものはない」
 それと同じことなのである。
 青山二郎は、その美しい花を求めて、一生を発見についやした美の放浪者であった。
   白洲正子『美は匠にあり』より 「余白の人生 青山二郎


「美」とは、本来ありもしない...あるとすれば、それを発見した個人の中にある。
いままでそんなことは考えても見なかったが、その一言が腑に落ちた。
同じものを見ても、美を発見できない人もいるし、どんな些細なことにも美を見出す人もいる。
自分は後者でありたいが...まだまだ、その域にはいたっていない。

(自分の持っている骨董について)陳列に貸してくれと頼まれる時がある。
はじめは得意で出品したが、この頃は少しいやになった。
出し惜しみするわけではなく、何か自分の一部といったように、大事にしているものを、人目にさらすのが辛いのである。
こういう気持は、骨董好きにしかわかって貰えないと思うが、よかれあしかれ、日本の鑑賞には、そういう人間臭さがつきまとう。
私物化するのはよろしくない、なるべく多くの人に見て楽しんで貰いたい、そう思う気持がないわけではないが、
単なる物見高さから見物されては堪らない。
もともと日本の美術品は、そのような鑑賞に堪えられるように育ってはいない。
ガラス越しに見ても、その真価がわかる筈はなく、手にとって、使ってみて、長い間付合った上で、
はじめて納得が行く人間的な存在なのである。
  前掲書  日本のもの・日本のかたち

どんな上等なものでも、しまっておいたら必ず顔色が悪くなるという...
なるほど、美術館に陳列されてあってもおかしくないような陶器も使っていたようであるが
当時は生き生きとしていたのだろうな...
そんな陶器も使われなくなって、なんとなく色を失っているようにも見える。
考えてみれば、自分も単なる見物人でしかないわけで、遠くから見ていても本当の良さはわからないのだろう。


茅葺きの家を出て、敷地内の雑木林を歩き、当時は周囲にひろがっていたであろう田園を思い浮かべた。