あの空の透きとおった水浅黄は、何を反映しているのだろう。
空の奥に水浅黄の光源でもあるのか、
それとも深い井戸でもあって無限に水浅黄を流しているのだろうか。
海はその水浅黄を映して、底深い器にため、青藍を深々と湛えている。
いずれも水や水蒸気という無色透明のものがあつまって色をなしているのだから、
地球上の大半は、色でない色がめぐっていて、本当の色はどこにあるのかと、
そんな考えが胸をよぎった。
志村ふくみ『語りかける花』 縹の縷(はなだのる)
少し西に傾いた陽射しで輝き始めた稲穂の上を、風が吹き抜けていった。
佐久市の南にあるコスモス街道と呼ばれるその道は、
左右に岩山が連なる田園地帯をまっすぐに貫いていた。
うねり続ける金色の波の中で、コスモスの群れは風に身を委ねて大きく揺れていた。
水浅黄の空とは、こんな色を言うのかな。
その清々しい空に、刷毛で掃いたような雲が漂っている。
コスモスの花弁が、朱鷺色の九月の陽射しを浴びて光る。
ああ、なんと美しいのだろう!
こんなに鮮やかな、燃えるようなコスモスは、観たことがなかったな。
いつも、弱々しく儚げなコスモスが、今日はこんなにも輝いている。
「色は光の行為であり受苦である」
志村ふくみさんが教えてくれた、ゲーテの言葉が不意に浮かぶ。
人は、この空にも光そのものを手に取ることもできない。
太陽から到達した光が空気に触れ、水分に触れ、地上のあらゆるものと触れた瞬間に
散乱し、屈折し、反射し、分散し、吸収され、闇に呑み込まれ...
途方もない色として、この地上を彩る。
それだけではない。
ふくみさんは、何百年も前の茜の根を掘り出し、それで糸を染めあげたとき
そこに、いにしえの光が吸収され蓄えられてきたと観じたという。
美しい鉱石の色も、光が地中に溜められた色ではないかと...
今、目の前で揺れるコスモスの花々の上にも、光のそんな「行為」と「受苦」の姿が見えるような気がする。
こんな晴れの日もあるけれど、風に吹かれ雨に打たれても、短い花の命を生きる姿が美しいのだ。
人もまた、行為と受苦のなかでしか色づいていくのだろう。
生きていれば、宿命的に人は様々な苦難に出会う。
逃げてしまえばそれまでだが、悪戦苦闘のなかできっと人は、その人の色に色づいていく。
そこにいるだけで何とも言えぬ人格の色香を放つ人は、
きっと、言い知れぬ闘いを乗り越えてきた人なのだ。
そんな人になるには、なにもかも、受けて立つしかないのだな...きっと
畑の脇の駐車場に、介護施設のマイクロバスが停まった。
或いは手を引かれ、或いは杖をつきながら、バスを降りてきた老人たちの顔が
コスモスの花を観て、いっせいに華やいだ。