悲しみのなかに

前略 
今朝一番の飛行機で富山空港に着きました。
空から見えた立山連峰があまりにもきれいだったので
雪景色の中を走りたくなって...
高速を使わずに、山越えの道で金沢に向かうことにしました。


国道157号線は、高岡から庄川に沿って飛騨に向かう山間の道です。
国道とは名ばかりで、冬は車もほとんど通らない静かな道です。
街中には雪の降った跡さえなかったのに、
庄川温泉郷あたりから山が白くなりはじめ、
その先のトンネルを抜けたら、見渡す限りの雪景色が現れました。


そこからは、走っても走っても墨の濃淡だけで描いたような色のない世界
まるで別世界に迷い込んでしまったようでした。
その時、不意に視界の隅に赤い色が飛び込んできて、慌てて車を停めたのです。


そこが、川なのか湖なのかわかりませんでしたが、
視界に飛び込んだのは、向う岸の赤い橋だったのです。
エンジンを停めて外に出ると、そこは凄まじい寒気と静寂に包まれていました。
鳥の声どころか、風の音も川の流れる音も、まるで聴こえません。


なんの変哲もない赤い鉄橋に、なんであんなに惹かれたのか...
対岸に立って、凍りついたような水面に映る山々と赤い鉄橋を眺めながら
ずいぶん長い間、そこに立ち尽くしていました。
理由のわからぬ悲しみが胸の奥の方からわきあがってきました。
でも、その悲しみをなぜか愛しく感じたのです。
そして、悲しい...悲しい...と胸のなかでつぶやいていました。
そこに立っているうちに、山を覆う雪が蒼ずんでいるのに気がつきました。


雪が蒼い光を宿していることをご存知ですか?
僕は、二年前に富山の雪道を歩いていてそのことに気づきました。
どうした光の加減なのか...厚く降り積もった雪の一部が曇り空の下で蒼く光っていることがあるのです。
蒼といっても、白とほとんど区別がつかないくらいの淡い蒼です。
「かめのぞき」という色は、こんな色なのかなと思います。
白い甕に水を満たして、それを覗いたときに見える水色...
藍染では究極の色で、超一流の職人が丹精込めて発酵熟成させた藍甕の老成した最後の色です。
かめのぞきが染まった後、藍甕の藍は、こつ然と色を失います。
これは、ふくみさんの受け売りですが...


いのちの底には、きっとこの色があるように思うのです。
汚れなき純粋な水のような色が...
それは美しくも悲しい色です。
もしかしたら、「悲しい」という心は、人の感情のなかで一番美しい姿なのではないかしら...
最近、そんなふうに思います。
他の感情には「美しい」という形容詞はあてはまらないもの...
そういえば
昔の人は、「かなし」という言葉を「愛し」と書いたり「美し」と書いたりしたそうです。
慈悲という言葉にも「悲しい」とう字が入っていますね。
慈しむということが悲しいなんて、なんだかおかしな気もしますが、
この雪景色を見ていたら、なんとなく合点がいくような気がします。


僕のいのちにも、あの雪に宿っていると同じ蒼があるとしたなら、なんて素敵なことでしょう。
今は塵芥にまみれて濁ってしまったけれど...
生きている意味は、その色を探し当てることなのかなと思います。
いのちを清澄にするには、たくさんの悲しみが必要なのかもしれません。


空から見た立山の美しさも、「氷と高山のなかで生きる」と言ったニーチェの言葉も
ここに来て、一本の線の上に繋がったような気がします。


もし、冬の富山に来られることがあったなら、きっとこの景色をご覧になってください。
赤い橋が目印です。


さて、そろそろ山を下って金沢に向かいます。


草々