水のかたち 翡翠の清流

木立の間から、不意に翡翠色の水面が現れた。
あまりの美しさにため息がもれた。

豊川をさかのぼった支流のまた支流...地図に名前も載っていない川だった。
雑草に覆われた小道を降りて、川の畔に立った。
水面にできた風紋の上で光が揺れた。


裸足になって、清流に足を踏み入れ、岩に腰掛けて手を水に浸す。
葉擦れの音...鳥のさえずり...
爽やかな風のなかで、静かに時間が流れていく。

行く川の流れに手を差し入れて、
この水はいったいどこから来てどこに行くのだろうと想いを馳せる。
ふと、『水のかたち』の一場面が脳裏に浮かぶ。


水のかたち(上) (水のかたち)

水のかたち(上) (水のかたち)

 どこから来てどこへ行くのかわからない頼りない滝が
最初に当たる段差のところに志乃ちゃんがあのリンゴ牛を置いたとき、
私は妙な空想のなかにひきずり込まれていった。
 あの丸い石は、ここに置かれたときからリンゴ牛だったのだ。
落ちつづける水滴に穿たれて形を変えていったのではない。形を変えたのは水のほうだ。
水は流れて来て落ちて、一瞬リンゴ牛の形になって、すぐに別のものと同じ形に変わって、
浅い滝壷にいったん溜まり、水の道へと向かって行って、水の道の形になり、
水草の繁っているところでは水草の形になり、石と石とに挟まれた細い水路では水路の形になり...。
それなのに、水であることをやめない。
リンゴ牛にもならず、水草にもならず、水路そのものにもならず、
他のどんな形に変化しようとも、水であり続ける。
私は、この水のように歌いたい。歌えるようになりたい。
空想にひたりながら、私はそう思った。思いというよりも願いというほうが正しい。
それから私の歌は変わったのだ。誰にもわからない程度の変化だったが、変わったということは私にはわかった。
私は川を歌い、海を歌い、寒い冬を歌い、春の嵐を歌い、悲しい恋を歌い、つらい人生を歌い、
浮き立つ恋を歌い、自堕落な夜を歌い、寂しい雨を歌い、夜ふけにさまよう犬を歌った。
それらの形になって、水のように歌った。
いや、歌ったというよりも、そのように歌おうと心を定めたのだ。


(*リンゴ牛:早苗が川でみつけた石。牛の背中にリンゴが乗っているような形をしている。
      そこには感動的な物語があったのですが、詳しくは小説をお読みください)

    宮本輝『水のかたち』


無数の道を辿って谷に集まった水は川となり、さらに無数の流れを受け入れながら流れて行く。
生まれたばかりの川は、青年のように濁りなく汚れなく美しい色をたたえている。
しかし、ここからさらに下りながら、あらゆる生命を育み潤していく一方で
様々な汚れも溶かし込みながら流れていかねばならない。逃げることはゆるされない。

しかし、どんなに濁り、不純物を受け入れたとしても、水は水であることをやめない。
やがて海に注ぎ、海に溶け込んで...浄化され、蒸発して雲になる。
そしていつか、地上に降り注ぎ清流となって生命を潤す。


清流のこの色のように、清らかに生きたいと願ってきた。
澱みでうずをまき、世間の塵芥で汚れていく自分を正視したくなかった。


水のごとくあらねばならぬ。
たゆまず流れ続け生き続け、使命のままに人を育み人を潤し...
たとえ途上で思わぬ迷路に流れ込んでも、ドブ川に流れこんでも嘆くまい。
汚物も毒もいっそ飲み込んでやろう
哀しみも苦しみも…
悪徳も憎悪も、いっそ飲み込んでやろう...

しかし、どんなに濁って先が見えなくなっても、水であることをやめてはならぬ。
そして…姿は汚れたとしても、美しい清流の水の色をわすれてはならぬ。
いのちの底に横たわるこの美しい色を...

そしていつか海に注いで、溶け込んでいくのだ。
生まれ変わって、また永遠に水として流れ続けるのだ。


さあ、また現実のなかに飛び込んでいくか...
立ち上がろうとして、足元に視線を落としたら
エゴノキの小さな白い花が、川面を
ゆっくりと流れていった。