森に降る花

黒部川にかかる橋を渡り入善町にはいったあたりで、とうとう雨になった。
五月に降るこんな霧のような雨を麦雨(ばくう)というらしい...
フロントガラスにふりかかる細かい雨粒をワイパーが拭うたびに
目の前の道も、一面の麦畑も、しっとりと濡れていった。


海沿いの県道を行くと、黄金色の麦畑の海なかに、大きな森が蜃気楼のように浮かんでいた。
こんなところに森があるなんて...
「杉沢の沢スギ水源の森」という立札の前に車を停めて
何かに引き込まれるようにその森に入っていった。

立山連峰から流れ落ちる雪融け水が、黒部扇状地の地中に浸透し
長い長い時間をかけて、海辺で湧きあがって泉となり小川となって
何千年もの間育んできた奇跡の森
扇状地の頂点...あの愛本橋から15kmの末端にはこんなに美しい森がひろがっていたのだ。

ひやりとする空気...むせるような緑の匂い...せせらぎの音... 
ここが海辺だとは信じられないような別世界の光景が目の前にひろがっていた。
杉の葉先に溜まった大粒のしずくがゆっくりと落ちてきて、
足元を覆うシダの葉がほつほつと音をたてて揺れ、
濁りを知らぬ透明な水面に映り込む新緑が、波紋の上で揺れる。

足元に白い花を見つけて立ち止まる...それはエゴノキの花だった。

小枝の先でうつむいたまま悲しげに咲くこの花が
こんなにも瑞々しい姿で空を見上げているなんて、素敵なことではないか
そう思って頭上を見回してみたが
鬱蒼とした木立の中で、その花がどこに咲いているのかは見つからなかった。
もしかしたら、虚空からぱっと咲いて降ってきたのではないかしら...


その花は、森のいたるところに落ちていた。
杉の葉積もる小径にも、大地を覆い尽くすシダの葉にも、苔生す老木の上にも..
輝く水面にも灯篭流しのように列をなして、静かに花が流れていった。



 花が降る 花が降る
 奇跡の森に 咲き出た花が降る
 うつむきながら それでも生きるあなたのいのちに
 この花が咲きますように...


 花は流れる 花は流れる
 清き流れの水面を よるべなく花は流れる
 涙はすべて この清流のなかに流してしまって
 ひかりさす方へ 善きものの方へ



水辺の葉の上に佇む一輪の花を見つけてしゃがみこむ
星の数ほどの花のなかで、その花と見つめ合った一瞬のいのちのやりとりを
忘れることはあるまい。

森のなかをどう歩いたのか...
ふと気がつくと、森の切れ目に辿り着いていた。
杉の木立のむこうに富山湾が見えた。
そこに海が横たわっていることはわかったが、水平線は雨に煙って判然としなかった。


補足: 杉沢の沢スギは、かつて130ha(1haは100m×100m)もの面積があったと言いますが、
昭和48年の圃場整備事業でほとんどが伐採され、農地にされてしまいました。
現在残っているのはたったの2.6ha 
伐採された森は、もう二度ともどってはきません。残念なことです。
また黒部の沖には海底林という世界でもここだけという1万年前の杉林が発見されています。
これも、黒部の豊富な湧水と土砂が、古代の木を腐敗から守ったのです。