藍染のこころ

五月の澄みわたる空を見上げるように
ネモフィラの花が群れ咲いていた。
届かぬ空に溶け込むように... 
さわれぬ色にさわったように...



青...
地球上に最も広大な領域を占めるこの色を
ひとは愛し、ひとは憧れてきた。
手で触ることのできぬ空の色を...
手にすくえば消えてしまう海の色を...
この身に引き寄せ、自らの手に抱きしめたいと希った。


しかし...青と緑だけは植物から直接染め出すことができなかった。
希いはさらに祈りに昇華したことだろう...
やがて人は、蓼藍を発酵させることによって美しい藍を手にしたのだ。


日本で藍の文化が深まり、愛されてきたのは
移りゆく季節のなかで、微妙に変化していくこの空の色と、それを見分ける人の感性...
藍作りにかける厳しき執念と、微生物の声を聴きわける繊細さ...
そして、それを深い内面の世界にまでも広げていく、精神性の高さがあったからではなかろうか。


志村ふくみさんの染め織りの世界を読むうちに
「色」に対する見方が変わり、自然のなかに存在するひとつひとつの色が愛おしくなった。
また、それを衣に染めていった職人たちの心を想うようになった。

一色一生 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

一色一生 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

かつて片野元彦先生に藍建てを教えていただいた時、藍を建てることは、子供を育てるのと同じだと、
藍は建てる人の人格そのものだと、そして藍の生命は涼しさにあるといわれました。
四国の吉野川流域で藍作りに生涯をかけている佐藤さん一家の蒅(すくも)を暮に一年分わけていただきますが、
われわれ素人が一発勝負で藍を建てることを昔から「地獄出し」「鉄砲出し」といって
万に一つ建てばよい方だとされていました。
(中略)
甕には一つ一つ藍の一生があって、揺藍期から晩年まで、一朝ごとに微妙に変化してゆきます。
朝、甕の蓋をあけると、中央に紫暗色の泡の集合した藍の花(あるいは顔)があり、
その色艶をみて、機嫌のよしあしを知ります。
熾んな藍気を発散させて、純白の糸を一瞬、翠玉色にかがやかせ、縹色(はなだいろ)にかわる青春期から、
落着いた瑠璃紺の壮年期を経て、日ごとに藍分は失われ、
洗い流したような、水浅黄に染まる頃は、老いた藍の精のようで、その色を「かめのぞき」ということも大分後に知りました。
かめのぞきといえば、甕にちょっとつけた淡い水色をいうように思いますが、実は藍の最晩年の色をいうのです。
 健康に老いて、なお矍鑠とした品格を失わぬ老境の色がかめのぞきなのです。
       志村ふくみ『色と糸と織と』


草のいのちをいただき、そして暗い甕のなかで微生物が作り上げていく藍
人が手を入れ慈しんで染め上げていく色...
青は、奇跡の色なのだな...
そして、そこから生まれる緑も...

  すべてのみえるものは、みえないものにさわっている。
  きこえるものは、きこえないものにさわっている。
  感じられるものは、感じられないものにさわっている。
  おそらく、考えられるものは考えられないものにさわっているだろう。


本当のものは、みえるものの奥にあって、物や形にとどめておくことの出来ない領域のもの、
海や空の青さもまたそういう聖域のものなのでしょう。

  志村ふくみ『色と糸と織と』


祈りとは、みえないものにさわる行為なのかな...



森のなかを歩いていくと
開いたばかりのヤマボウシが、天を見上げていた。
その姿は、祈っている人の横顔に見えた。