成長しつづける作家

橋の下から轟音が聴こえた。
欄干から身を乗り出して覗き込むと、
滔々と流れる井田川の、そこだけ傾斜のきつくなった川底のくぼみに水がなだれ込み
岩にぶつかって激しく砕け散っていた。

飛騨の山々から流れ落ちてくる雪融けの水なのだろう...
以前、大糸線の車窓から、姫川の荒れ狂うような雪融け水を目にしたが、
こうして間近で見ると、足がすくむほどの迫力だ。
...衆流集まりて大海となる...か...
それにしても、凄まじいものだ。

橋の向こうには、川に沿って石積みの壁がそびえ立ち、その上に家々が連なっていた。
八尾に来たのは、これで三度目になるが、町の中心を走る坂道を上がっていたので
この石積みを見たことはなかった。
金沢から富山に戻る途中にここに寄ったのは、この石積みを見るためだった。

 けさはこころなしか鶯の声がいつもより弾んでいるように感じられました。
いまは少し曇っておりますが、半刻もすれば晴れてくるぞと教えてくれているのでございますし、
春はすぐそこだと伝えているものと思われます。
 他の地域ではあまり見ることのないこの石積みの上に造られた八尾の商家の居並びは、
あたかも攻めくる軍勢から防備するための石垣と思う人もいらっしゃるようですが、
そうではございません。
 うしろは深い山、眼下は井田川。八尾の町並みはそのあいだの小高い場所にございますので、
万一山崩れなどが起こりますと、町ごと井田川に落ちてしまいかねません。
 そのために石を河畔に積み重ねることで防災といたしましたが、
少し離れたところから眺めますと、人間の頭大の石を巧妙に装飾して、
一個一個積み上げて町の景観を高めているのだなと、
他所から訪れる人々にその風雅な心意気をも示そうとしたのだそうでございます。
   宮本輝『潮音』  文学界4月号 連載第一回

まさに、風雅だな…
こんな石積みは、他で見たことがない。


宮本輝先生の新作『潮音』が「文学界」4月号から連載開始になった。



加賀藩のなかに分割された富山藩という小さな藩から起こった薬売りの物語
英雄の歴史を書く人は多いが、庶民の歴史を書く人は少ない。
庶民の歴史の中にこそ真実があるというのに…


一人語りの文体はいいな…史実でさえも、温かみを感じられる。
さて、人間の幸福を描き続けてきた小説家が書く歴史物語は
どのように展開していくのだろうか...。


68歳にして、新聞小説を含む三本の連載を並行して執筆され、しかも、初めての歴史小説への挑戦。
あの激流は、先生のいのちの姿そのものではなかったか...
その大きなな流れを成す衆流とはなにか... 激流を起こさしめたもの何なのか...


新装版 命の器 (講談社文庫)

新装版 命の器 (講談社文庫)

作家の多くは、作品を生み出すごとに痩せ細っていくものだ。
肉体が痩せ細っていくのではなく、作品そのものが痩せ細っていくのである。
山の木を切り倒していくようなもので、一本しか生えていない山の持ち主もいれば、百本の木を持つ山主もいる。
しかし一本は一本であり、百本は百本でしかない。
すべてを切り倒してしまったあとは、どうしようもない裸山になってしまう。
丸裸の山から、うんうんうなって何とか木を切り倒そうと血まなこになっている作家のなんと多い昨今だろう。
そんな作家は、もはや何も生えていない山に登って、落ちている小枝をかき集め、それで細工物をこしらえるしかないのだ。
彼等は木を切り倒すことしか出来ないからである。
だが、稀に、別の何かを創りだすために木を切り倒す作家が出現する。
山本周五郎は、その稀な作家のひとりであった。その証拠に、氏は書くごとに成長した。
文章も、主題も、眼力も、さらには氏の演歌の質までも成長した。それはおそるべき執念と練磨を氏に課したことだろう。
「木」は才能である。その木で別の何かを創りだすものこそ、修練であり執念であるのだ。
天与の才を持つ人が営々と努力していくとき、木は倒れざる建造物と化すと言える。
その建造物だけが歴史に耐えていくのである。
   宮本輝『成長しつづけた作家』 「命の器」収録

これは、若き日の先生が書かれたエッセイであるが、30年という年月を経て、ご自身がその言葉通りに成長し続けてこられたのである。
読む人を幸福にせずにはおかないという誓いと、絶え間ない修練…
自分などには到底理解などできない境地であるが…


石積みに沿った急な坂道を登り、民家と民家の間の、公道だか私道だかわからない迷路のなかをさまよい歩いた。








風の盆の幻想の夜とはまったくちがう山間の静かな町の空気を吸い込んでから
坂道を降り川を渡って、車に戻った。

富山駅に向かう途中で見えた立山連峰は、桜色に染まっていた。




産経新聞 2015/4/13記事 
作家・宮本輝  作家は70代に熟成する
http://www.sankei.com/life/news/150413/lif1504130007-n1.html