水音

垂れこめていた雲が切れて、立山連峰の中腹に、光の帯が走った。


魚津から富山市内に戻る途中...
美しいその姿を眺めながら、
ふと、あの方が先週訪れた八尾の街の佇まいが心に浮かんだ。
あの方が歩かれたであろう冬の諏訪町の坂を歩いてみたいと思った。
「初音」で夕食を済ませてから電車に乗る予定にしていたので、時間はあった。


静かな山あいの坂の街には、水音だけが高く響いていた。
去年9月に訪れた風の盆...
あの夜も流れていたはずなのに...あのおわら節の哀しい音色の下に沈んでいたのか
身動きも取れないほどの人の波に流されて歩いた記憶のなかで
水の音は聴こえていなかった。
(風の盆の日記→http://d.hatena.ne.jp/mui_caliente/20140903





300mほどの坂道は静まり返って人の姿も見当たらず、ただ水の音だけが響いていた。
雪は何日か降ってはいないのだろう。
街中に雪はなく、家々の屋根に残った雪から滴る水が路上を這って
道の両脇を流れる水路の流れに吸い込まれていった。

 その家から町外れの山あいの桑畑まで、毎日とめは諏訪町をのぽって桑の葉を摘みに通った。
途中に、あの人とならと思い定めた男の家があった。
 とめの娘時代には、そんなことは親にも友達にもいえなかった。
ただ、足早に歩く速度を、その男の家の前ではいっそう早めるだけのことだった。
たまに出会うことがあっても、とめは俯いている顔をなおのこと深く足もとに向けるだけで、
相手に会釈することも出来なかった。
 諏訪町を上りきると、東新町にかかるあたりから、水音が更に一段と強くなる。
腿道で山ひとつをくりぬいた雪流し水がその辺で町に流れこんでいる。
(中略)
 とめはそこで笹船を作っては、そっと水に浮かべたものだった。
ものの一秒も笹船はとめの視界に止っていない。
その短い時間に笹船が転覆せずに流れ去れば、あの人に会えるかも知れない。
とめはそう思うのだが、目方も感じさせないほどの笹船さえ、
雪流し水は流水の中に揉みこむように運び去って行ってしまうのだった。
 その頃、とめはおわらの有数な踊り手といわれた。
今では昼に踊る場合、踊り手が笠をぬぐことがある。だが、昔のおわらは決して編笠をぬがずに踊った。
娘盛りになれば、なおのこと深く笠で顔をかくした。
たとえ顔が見えなくても、自分の思いが熱ければ、
踊りの振りでその人にだけは自分とわかるはずだと信じてとめは踊った。
 むしろ、顔が見えないという安心感が、若かった日々のとめたちを奔放にさせた。
面と向ってはなにもいえない思いのたけも、踊りの艶としてなら出せる。
   高橋治『風の盆恋歌』 序の章

笠の下に隠された、そんな秘めやかな恋は、いまも残っているのかな...
風の盆の夜に、また来てみたいな...
そして、風の音と胡弓の音のなかを、彷徨い歩いてみたい。


あの方は、ここに立たれて、何を感じになられたのだろうか...


水音の絶えない坂道を一人歩いていたら、なぜか無性に寂しくなって車に引き返し、
神通川に沿った道を走って、富山駅に向かった。



レンタカーを返して、再び『初音』
4時すぎというのに、常連さんが次々に入ってきて、賑やかになる。
皆の話を聴きながら、たまに話に加わり...おでんをいただく。

あと何回来れるだろう...
今日は、刺身の注文が重なって、おばあちゃんは奥でずっと魚をさばいている。

ふくらぎと白えびも美味かったが
隣の人から分けてもらったカワハギの刺身は、肝に薬味を練りこんだソースが絶品!
京都出身というその人と、京都の話をしてから、店を出て駅に向かった。