人間のなかへ...

仕事をしないで家にいると
誰とも話さずに
一日が終わってしまうことが多い。
人間と触れあうことは、
煩わしいことでもあるが
その煩わしささえ、今は懐かしい。


今日は、一日中雨だったので、ずっと自分の部屋にいたが
夕方近くなって、ぶらりと近所の喫茶店まで出かける。
遊歩道には水たまりができ、木々の葉が雨に濡れて枝が重くしなっている。

孔子』   井上 靖


...知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。
論語」に収められている孔子の言葉であるが、
何となくはっきりしないところがある。
論語」の編者は大切な一行を落としているのではないか。
仮に、
...無頼は戈壁(ゴビ)を楽しむ。
の一行を付け加えさせて貰うと、事情は全く異なってくる。
...知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しみ、無頼は戈壁を楽しむ。
こうなって初めて、この言葉には生気が蘇ってくる。
孤独な知者と孤独な仁者を遠く置き去りにして、
山も川もない戈壁の大原野を移動してゆく無頼の大集団。
言うまでもないことだが、孔子はその中に居る。
いかなる時の孔子よりも生き生きと、移動する人間の流れの中にいる。

井上靖の小説『孔子』は、壮大な師弟のドラマであった。
そして、この詩には人間孔子の生きる姿が、たった一行で表現されている。
五十を過ぎてから故国を追われた孔子は、
弟子とともに放浪の旅をしながら人間の中へ人間の中へと入っていく。
人を幸せにするための思想は、決して生身の人間から離れたところにはない。
高みのから人を見おろすような知識人と言われる人間に何ができようか?
原野を行く無頼であれ...
それが井上靖氏の孔子研究の結論のように思う。
人間の中で生きたい...その思いは益々強くなる。