いのちを見とどけること

富山駅の上空は、
今にも雨が落ちてきそうな空だった。
先週初冠雪をしたという立山連峰は、
重い雲に覆われていた。


台風26号の影響を考えて、早朝に家を出たが
交通機関は思いのほか順調で、午前中に富山駅に着いた。
不意にできた3時間...どこに行こうかと検索したら、
スマホの画面いっぱいにコスモスの画像が現れた。


今年はコスモスを見ていなかったな...
ナビに導かれるまま、曲がりくねった山道を昇っていった。
空はどこまで行っても暗く...
高度を増すごとに、空虚な心の霧も濃くなっていくようだった。


最後の左カーブ...
不意に視界を覆う蝶の大群...思わず声をあげそうになった。
心がふわっと浮き上がったような気がした。
それは、広大な丘一面に広がるコスモスの花園だった。
どこまでも続くコスモスの群れは、斜面を下りてくる湿った南風に揺れていた。

平日の午前中...人影もまばらなその花園をゆっくりと歩く。
風の音...蜂の羽音...コスモスの淡い香り...
かき立てられるせつない思い...


風に吹かれても、雨に打たれても、しなやかに受け止めながら
空を見上げることを決してやめない、健気な花々
コスモスの花を見るとなぜか「心根」という言葉が浮かぶ。
心根の美しい人間がこんなふうに群れ咲いていたら、どんなにかいいことだろう...


写真には収まりようもない広さ...
しかし、コスモスには花の中に宇宙がある。
花芯がすべて星の形をしているのだ...
そうすると、この野原にはいったいどれほどの星があることか...
そして、人間のなかにも、きっと宇宙があるのだ。


花を見上げて写真を撮るようになったのは、いつのことだったか...
散り終わったコスモスは、上から見ると醜いけれど
こうしてみると、そらに昇っていく星のように見えるのだ。


若い生命は、誰の眼にも美しく映るものだ。
しかし、衰えてなお輝く生命の本当の美しさは、硬直した心には映らない。


障害を持った女性が、年老いた両親に手を曳かれて
たまに奇声をあげながら、ゆっくりと通り過ぎていった。
寄り添って生きてきた人の後ろ姿はせつなくて...それでいて強くて...
老夫婦の横顔に刻まれた深い皺が美しかった。


少し角度は違うかもしれないが...こんなエッセーを思い出した。

死なないでいる理由 (角川文庫)

死なないでいる理由 (角川文庫)

 中川幸夫さんの名を世に知らせることになった作品に「花坊主」(一九七三年)がある。
真っ赤なカーネーショソ九百本の花を雀(むし)り、
それを持ち帰って、大きなガラス壷に一週間詰めておく。すると花は窒息してしまう。
その腐乱した赤い花肉を詰め込んだ壷を、真っ白の厚い和紙の上にどさっと逆さに置く。
すると、鮮血のような花の樹液が和紙にじわりじわりと惨みだしてゆく...。
「花の血」である。
 花のいのちを最期まで見とどげる。
花のいのちをこの手でずしりと受けとめて、最後にもういちど花にそのいのちを咲かせてやる。
最期の華やかな狂いをたっぷり演じさせてやる。そんな情を中川さんは花に注ぐ。
 「花って、蕾から開いたり、崩れていたりして、いろいろじぶんとのつきあい方があります。
生きものとして、花と人間はおなじ」と、その日、中川さんはわたしにおっしゃった。
そして室町時代の「立花」のお手本の束を見せてくださった。
節分のころ、葉が乱れ、萎えてきたときのその水仙を生けるお手本だ。
水仙の生けどきはふつう、日本刀の刃のようにきりっと葉が伸びているときだといわれる。
ところが、室町時代の花人は、水仙の萎えた姿をも、
まぎれもない水仙のひとつのいのちとして生けた。
水仙のいのちを最初から最期まで見とどけようとしていた。
 鷲田清一『死なないでいる理由』


コスモスのいろいろな表情を見ながら歩くうちに、友人の顔が次々に浮かんでは消えていった。
皆、心根の美しい人ばかりだな...


遠くに見える、蒼く霞んだ山並みが美しい。


そしてまた、山を走り降りて、泥のような現実のなかにもどっていった。


おまけ ❁❁❁夢の平コスモスアルバム❁❁❁