『イワン・イリイチの死』『生きる』

四月も後半に入ったというのに
冬に逆戻りしたような寒い朝
空には厚い雲が一面にたれこめている。

 

午前中、関内の心療内科で診療を受けてから横浜公園へ...
広大な花壇はチューリップで埋め尽くされている。
途中から雨が降り出したが、花弁の上にたまった雨粒も美しいものだ。





 

その他の写真 → 2013年横浜公園チューリップアルバム

 

さて...
公園をつくった男の話である。
黒澤明 『生きる』
市役所で30年間、ひたすら自分の地位を築き守るためだけに働いてきた男、渡辺勘治。
しかし...ある日、突然ガンの宣告を受け、自らの寿命が長くないことを知る。

黒沢明と『生きる』―ドキュメント心に響く人間の尊厳
 

突然死の宣告をされることで、残された人生をどう生きるか、それを見つめようとする。
彼は、過去の自分の無意味な生き方に気づき、自分がまるで生きていなかったと思う。
そして、残されたわずかな時間をあわてて、立派に生きようとする。
(中略)
孤立無援の中で、生き甲斐や慰めを必死で求める。
そこにかっての部下の若い女性が現われる。工場で働く彼女は溢れるような生命力があり、
渡辺は自分ももう一度彼女のように生命を燃やしたいと思う。
彼は彼女の作った玩具に触発されて、やっと生き甲斐をつかむ。
渡辺は市民課長として、子供たちのためにささやかな小公園をつくることを思いつき、
厚い官僚機構の抵抗勢力と敢然と闘い、短い人生を燃え尽し、夢を実現させて死んでいく。
ガン末期の憔悴しきった体で働く時、渡辺には死の恐怖はなく、生きている実感と喜びが彼の胸を占めた。
         都筑政昭「黒澤明と『生きる』」

絶望の淵で、生きがいをもとめて徘徊するが、答えが見つからない。
彼を救ったのは、素朴で飾り気のない、生命力にあふれた女性の存在であった。
人が変わったように、必死になって行動を起こす渡辺...
そして、完成した公園に雪が降る夜、ブランコに座って「ゴンドラの歌」を幸せそうに歌いながら死んでいく。

 ♪いのち短し
  恋せよ乙女
  紅き唇 あせぬ間に
  熱き血潮の 冷えぬ間に
  明日という日の ないものを


この映画は黒澤明橋本忍による描き下ろし作品であるが
ストーリーは、トルストイの『イワン・イリイチの死』から着想したものである。
トルストイは、『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』を次々と発表し
作家としての地位を不動のものとするが、その後精神を崩し、
自殺を意識するほど「凶暴なる鬱」状態に陥る。
そして小説を書くのをやめてしまい、フィクション以外の文章を書きはじめる。
幾多の苦難を経て小説に復帰し
イワン・イリイチの死』『クロイツェル・ソナタ』『復活』等を書く。
「あるべき芸術とは万人にとって新しくかつ重要なメッセージを、
美しい形で、作家の内発的な意欲にもとづいて、誠実に描くものだ」と彼自身が定義している。

イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫)

イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫)

 

19世紀のロシア...実在の裁判官イワン・イリイチをモデルにして
死と直面した人間の内面の葛藤を描く。
冒頭、イワン・イリイチの葬儀のシーンから物語が始まる。
同僚は、イワン・イリイチの後任を誰が継ぐのかなど、
自分にいかなる利益があるかという議論をし
妻は、夫の同僚に少しでも年金を余分に受け取る方法はないものかと相談する。
というようなあさましいもの...

さて
イワン・イリイチは、ある事故をきっかけに病床に伏す。
そして、その病は死につながるものであることを知る。

昔キーゼヴェッターの論理学でこんな三段論法を習った。
「カイウス(カエサル)は人間である。人間は必ず死ぬ。したがってカイウスはいつか死ぬ」
彼にはこの三段論法がカイウスに関する限り正しいと思ったが、
自分に関してはどうもそう思えなかった。
          トルストイイワン・イリイチの死

トルストイは、死に直面したイワン・イリイチの葛藤について
恐れ、拒絶、怒り、戦い、取引、絶望、鬱、受け入れ...という段階を経ながら描いていく。
生きたいと願うが、どう生きればいいのかがわからない。
かつてのように幸福に...と考えてみても、その幸福が不確実であると感じる。
妻も医者も信じられない...
唯一の救いは従僕のゲラーシムの存在であった。
そして不条理な死への思いは次第に生への覚醒へと転じていく。

 

この物語を読んで、改めて『生きる』という映画を思えば
黒澤明は一歩踏み込んで、生への覚醒を行動に変えていくというところまで昇華させている。
映画の後半が、葬儀における人々の回想として語られるところは似ているが
そこに現れる主人公は、いきいきとして最後の生の闘いに挑んでいる。

最後の「幸福な死」は、生涯心に残るシーンである。

 

映画というものは、観客が映画館から出てきた時、
力がみなぎっているようなものでなければならない。
この場合、主人公が肯定的な人物であるか、それとも否定的な人物なのかということは、
意味のないことだと私は思っている。
肝心なことは主人公が人々に
『手をこまねいていてじっとしていてはダメだ、行動しなければ...』
と思わせるようでなくてはならない。
   黒澤明 1993年3月 中央公論

 

公園でひらかれていた園芸フェアで、シャクナゲに一目ぼれ...鉢植えを買って帰る。