中国へ...

朝早く、息子が中国に旅立った。
この数日、準備のために設計事務所に通い
深夜に帰宅する生活が続いていたので、昨晩慌てて荷物を詰めて
ほとんど話す時間もないまま、希望と不安を携えて、出掛けていった。
財布からわずかばかりの小遣いと、本棚から小林秀雄西岡常一の本を引き出して持たせる。
いきなり異国の地で生活するのは大変だろうと思うが、頑張ってほしい。


午後から面接へ...
プラントで使う特殊な機械の営業。
地図を見ながらたどりついた営業所は、マンションの一室で
待っていた所長は、苦手なタイプのぎらついた目をした関西人だった。
履歴書を見ながら10分ほどいくつかの質問をされ
その後は、自分の会社と商品がいかにすごいか..競合他社がいかにレベルが低いか..
という話を二時間近く聞かされる。
あまりにも自信過剰で胡散臭いな...と思いながら、
この前面接を受けた会社も同じだったなと思う。
提示された条件は、基本給が驚くほど低いコミッション制の給料だった。
しかもコミッションに率は売上の3%...求人票の条件は偽りだった。
会社ばかりが儲かって、社員は売っても売っても給料に反映されるのはわずかばかり...
成績が伸び悩んだ営業は辞めてもかまわないという考え方に呆れて、断ることを決めた。
転職が多い自分の書類が簡単に通る会社は、こんなところしかないのか...
情けなくなって酒でも飲みたい気分になったが、財布には三千円しか残っておらず...
しかたなく、そのまま家に帰る。


今日は風が強く、数日前に満開になった桜が一気に散ってしまった。
自分の心の中にも花が咲きかけているように思えたが、それは幻覚だったのかもしれない。
先日見た、満開の桜の木の下の静けさを思い出し、梶井基次郎の『桜の樹の下には』を読み返す。

檸檬 (新潮文庫)

檸檬 (新潮文庫)

桜の樹の下には屍体が埋まっている!
 これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。(中略)
 いったいどんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。それは、よく廻った独楽が完全な静止に澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、灼熱した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を撲たずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ。
 しかし、昨日、一昨日、俺の心をひどく陰気にしたものもそれなのだ。俺にはその美しさがなにか信じられないもののような気がした。俺は反対に不安になり、憂鬱になり、空虚な気持になった。しかし、俺はいまやっとわかった。
 おまえ、この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。
 馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪らなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚めて、その液体を吸っている。
 何があんな花弁を作り、何があんな蕊を作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。
 ――おまえは何をそう苦しそうな顔をしているのだ。美しい透視術じゃないか。俺はいまようやく瞳を据えて桜の花が見られるようになったのだ。昨日、一昨日、俺を不安がらせた神秘から自由になったのだ。