雨が降っていた。
早起きしてホテルを出たのは、御射鹿池に寄るためだった。
7月に初めて行ったとき、紅葉したらどんなに美しいだろうと想像していた。
(7月の日記⇒ 知多半田の夜〜御射鹿池 - ムイカリエンテへの道)
緩やかな登り勾配の国道を走っていくと
濃い霧が山から這い降りてきた。
そして、みるみるうちに行く手は霧に包まれていった。
池に向かう道は、森の中を突っきっていく道だった。
ゆっくりと走りながら、脇に目をやると
そこには、水墨画の世界がひろがっていた。
少し早すぎたので、車を停めて森に入っていった。
宮本輝先生の『ここに地終わり海はじまる』の中に霧の中を歩くシーンがあったな...
と、ふと思い出した。それは、この蓼科の森だった。
20年以上前に読んだ小説の景色のなかを、図らずも歩いていることが不思議だった。
梶井は、先に車から降りると、由加の手を握って、霧のなかに導いた。
このようなことを、志穂子にもしてやりたいなと梶井は思ったが、
きっと志穂子は霧だけはいやというほど見てきただろうと思いなおし、
「ねぇ、俺の顔、見えないだろう」
と由加に訊いた。由加は、木の根っこにつまずいて、転びかけ、声をあげて笑った。
「ほんとに、鼻をつままれてもわからないわね。あんまり遠くへ行くと、車のところに戻れなくなるわ」
由加にそう言われて、梶井は、どこが車道で、どこにどんな木があるのかもわからないまま、
由加とともに立ち止まった。
「怖いわね。鳥の声が聞こえなかったら、宇宙の果てに放り出されてるみたい」
トラックが、人間の歩く速度で道を下って行き、そのヘッドライトとフォグランプが、
濡れているアスファルトの路面をわずかに浮かびあがらせた。 ゛
梶井は、湿りつづけていく上着やズボンをそっと手で撫で、その手で由加の髪も撫でた。
そして、ここは自分たちにふさわしい場所だと思った。この濃い霧から脱けだしたら、
一から生き直せるような気がした。
「過去は消えないって言ったな」
その梶井の言葉に由加が答え返す前に、
「この霧のなかに、いやな過去だけ置いて行こうぜ。この霧のなかから出たら、もう二度と、
いやな過去のことを口にしないし、思い出しもしない。いいな、約束だぜ」
と梶井は大声で言った。
「宇宙の果てに、いやな過去を捨てて、地球に戻る。汚ない地球にね。いいな、俺はきっと
そうするから、由加もそうするんだぜ」
「私、働くわ。ピアノの先生でもしようかな。どこかでピアノ教室をひらいて」
と由加は言った。
「俺も、どんな仕事でもやるよ」
あのロカ岬の碑文をもじれば、さしずめ〈ここに過去終わり 未来始まる〉つてとこだな……。
梶井はそう思い、由加を引き寄せると、力いっぱい抱きしめた。
なぜかふいに、志穂子への言葉に尽くせない感謝の念が湧いた。
宮本輝『ここに地終わり海はじまる』
霧に包まれた森のなかには、鳥のさえずりと水のせせらぎ以外は、何も聴こえなかった。
何か途轍もなく大きなものに、抱かれているような気がした。
霧がもっともっと濃くなればいいのに、と願った。
小説を読んでから20余年の後に、企まずして同じ場所で霧のなかを歩いていることが
幸福なことに思えた。
御射鹿池は、霧で対岸がよく見えず...車を置いたまま、周辺を歩いてみた。
谷へ降りていく細い道から、カメラを持った人が登ってきたので
この先に何かあるのかと訊くと、意外そうに「おしどり隠しの滝ですよ」と
教えてくれた。
聞いたこともなく地図にもない滝
あまり期待もせずに降りていった。
長い下り坂の先の階段を降りていくと、滝が霧の中から忽然と現れた。
猟師に追われたおしどりが隠れたという滝は、様々な色の紅葉に彩られ、
色鮮やかなおしどりが隠れるには格好の場所と思われた。
霧の彼方から流れ出た水は、なだらかな斜面を滑り落ちて、
そして、また渓流となって霧の彼方に流れていった。
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず...か...
この流れには"過去"はないのだな...
あるのは、"いま"と"みらい"だけである。
"過去"の亡霊は、ここに捨てて行こう...
そう思うほどに臆病な心はそれに抵抗し
決断のつかぬまま、来た道を引き返し、仕事へと向かった。
赤蕎麦の花の咲く畑を横切り…錦繍の谷を越え…カラマツの林道を抜けて…
走っても走っても走っても、霧が晴れることはなかった。
おまけ
霧の蓼科...アルバム
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