岡崎から矢作川沿いの道をのぼって、その桜の下に着いたのは夕暮れ時であった。
日は既に山の端に沈み、青灰色の空の縁に茜の最後の一筋が消え入ろうとしていた。
風に揺れる何千本もの枝垂れの花の雲が、残照を吸い込んで灰桃色に染まっていた。
樹齢1300年の桜のいのちの力に気おされながら、恐る恐るその木の下に足を踏み入れた。
天蓋を覆う銀河のごとき満開の枝花から、薄墨の花びらが雪のようにひそひそと降っていた。
張りつめた静寂が、そこに横たわっていた。
細い枝に曳かれて揺れる花はうす紅色なのに、散りゆくは花びらは薄墨だった。
花開く直前の枝には、桜の色がたまっているという。
花開いた瞬間にその色は、枝から花へ…此岸から彼岸へと移ってしまう。
一年の間、この巨体にため込んだいのちの色は、いまいっせいに幾千万の花となって
頭上で揺れている。
そして、花は枝を離れた瞬間に燃え尽きて灰となるのだ。
気の遠くなるようないのちの輝きが...
そして同じ数だけの死が...
頭上の花の宇宙で、しずかに揺らいでいた。
時をまたずに散ってゆく桜の花のうす紅は、ひとの心に浸みいるような憂いがある。
(中略)
とめどなく散る。灰が降るように散る。花咲爺さんは、灰をまいて、ふたたび桜花を咲かせた。
灰は生と死のあわいの色か。
蘇生の秘術を花咲爺さんはやってのけたのだろうか。それにしてもなぜ灰だったのか。
私は今、木を燃やして灰をつくる仕事を時々やっている。木灰から灰汁をとって色を発色させるためである。
桜の幹や枝を炊いて、染液をつくり、その液で染めた糸を灰汁で媒染すると、うす紅色に染まる。
と、するとやはりここでも灰は蘇生の役を果たしていることになる。
死の門をとおりぬけて色が誕生する。
志村ふくみ『語りかける花』 灰桜
- 作者: 志村ふくみ
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
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万葉の時代から1300年という途方もない年月を生きてきた。
来る年も来る年も、桜の花の生死を見てきた。
散りゆく花の向うに、生まれては死んでいった数限りない人々も、その人々の栄枯盛衰の様もじっと見おろして生きてきた。
生きていることと死んでいることが同じことであるという、あたりまえな宇宙の法則も
この桜は知っているのだ。
生と死が交錯するこの樹の下のなんと静かなことだろう...
毎年必ず読み返す『桜の森の満開の下』の場面を思い出す。
桜の森が彼の眼前に現れてきました。まさしく一面の満開でした。風に吹かれた花びらがパラパラと落ちています。
土肌の上は一面に花びらがしかれていました。この花びらはどこから落ちてきたのだろう?
なぜなら、花びらの一ひらが落ちたとも思われぬ満開の花のふさが見はるかす頭上にひろがっているからでした。
男は満開の花の下へ歩きこみました。あたりはひっそりと、だんだん冷めたくなるようでした。
彼はふと女の手が冷めたくなっているのに気がつきました。俄にわかに不安になりました。とっさに彼は分りました。
女が鬼であることを。突然どッという冷めたい風が花の下の四方の涯から吹きよせていました。
男の背中にしがみついているのは、全身が紫色の顔の大きな老婆でした。その口は耳までさけ、ちぢくれた髪の毛は緑でした。
男は走りました。振り落そうとしました。鬼の手に力がこもり彼の喉にくいこみました。
彼の目は見えなくなろうとしました。彼は夢中でした。全身の力をこめて鬼の手をゆるめました。
その手の隙間から首をぬくと、背中をすべって、どさりと鬼は落ちました。今度は彼が鬼に組みつく番でした。
鬼の首をしめました。そして彼がふと気付いたとき、彼は全身の力をこめて女の首をしめつけ、そして女はすでに息絶えていました。
彼の目は霞かすんでいました。彼はより大きく目を見開くことを試みましたが、それによって視覚が戻ってきたように感じることができませんでした。
なぜなら、彼のしめ殺したのはさっきと変らず矢張り女で、同じ女の屍体がそこに在るばかりだからでありました。
彼の呼吸はとまりました。彼の力も、彼の思念も、すべてが同時にとまりました。女の屍体の上には、すでに幾つかの桜の花びらが落ちてきました。
彼は女をゆさぶりました。呼びました。抱きました。徒労でした。彼はワッと泣きふしました。
たぶん彼がこの山に住みついてから、この日まで、泣いたことはなかったでしょう。
そして彼が自然に我にかえったとき、彼の背には白い花びらがつもっていました。
そこは桜の森のちょうどまんなかのあたりでした。四方の涯は花にかくれて奥が見えませんでした。
日頃のような怖れや不安は消えていました。花の涯から吹きよせる冷めたい風もありません。
ただひっそりと、そしてひそひそと、花びらが散りつづけているばかりでした。彼は始めて桜の森の満開の下に坐っていました。
いつまでもそこに坐っていることができます。彼はもう帰るところがないのですから。
桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。
なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。
彼は始めて四方を見廻しました。頭上に花がありました。その下にひっそりと無限の虚空がみちていました。
ひそひそと花が降ります。それだけのことです。外には何の秘密もないのでした。
ほど経て彼はただ一つのなまあたたかな何物かを感じました。そしてそれが彼自身の胸の悲しみであることに気がつきました。
花と虚空の冴えた冷めたさにつつまれて、ほのあたたかいふくらみが、すこしずつ分りかけてくるのでした。
彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。彼の手が女の顔にとどこうとした時に、何か変ったことが起ったように思われました。
すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていました。
そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も延した時にはもはや消えていました。
あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりでした。
- 作者: 坂口安吾,川村湊
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陽が落ちてあたりが暗くなったとき、静かに水銀灯が灯った。