憧れの矢となれ

日記のコメントは、最近の日付のものにいただくことが多いが
今日は2年前の日記に、癌と闘病されている方から寄せていただいた。
癌の手術を終えて療養中に、たまたまムイカリエンテの日記を読んでいただき、
コメントを寄せていただいたようである。
検索のキーワードは「憧れの矢」

『君は君の友のために、自分をどんなに美しく装っても、装いすぎるということはないのだ。
 なぜなら、君は友にとって、超人を目ざして飛ぶ一本の矢、憧れの熱意であるべきだから。』
                     <ニーチェツァラトゥストラ』>
http://d.hatena.ne.jp/mui_caliente/20080718


この世界のあらゆるところで無数の人が無数の苦悩と闘っている。
そんな人に勇気を与え生きる力をもたらすのが本物の哲学であると思う。
それは何も難しい哲学書の中だけでなく、一遍の詩の中の中に、一枚の写真や絵画の中に、一曲の音楽の中に
そして、なによりも一言の激励の言葉や人の振る舞いの中に観じるものである。
それは、受ける側の感性の問題であり、その人の闘う姿勢によると思う。
安閑として何も苦労のない人や、厭世的な人、物欲にまみれた人や慢心の人には、受け入れることができない。
こういう生き方の中には、精神を高めようという姿勢が消えうせてしまうからだ。


自身を顧みても、やはり浮かれたような気持ちになっている時は、その感受性が薄れてしまっている。
悩み悶えているときほど、素晴らしい言葉との出会いがあり、素晴らしい人との出会いがある。
これまでに多くの美しい言葉に出会ってきたが、ニーチェの言々句々も、今読み返してまた感動を新たにする。
ツァラトゥストラ〈1〉 (中公クラシックス)

君はまだ見たことがないのか。
帆がまるくふくらんで、
強烈な風におののきながら海をわたって行くのを。
その帆のように、精神の強烈な風におののきながら、
わたしの知恵は海をわたってゆく
...わたしの荒々しい知恵は。
          ニーチェ『ツァトゥストラ』

http://d.hatena.ne.jp/mui_caliente/20080727

見よ、この苦痛そのものも、あの同じ良心の生み出した産物なのだ。
あの良心の最後の微光が、いまなおあなたの悲しみの上に輝いているのだ。(中略)
今日はまだあなたは一人立ちで多数を向こうに回して苦悩している。
今日はまだ、あなたはあなたの勇気と、あなたのもろもろの希望を少しも失っていない。(中略)
あなたは彼らを超えて行くのだ。しかしあなたがのぼればのぼるほど、
妬みの眼は、あなたをますます小さな者として見る。
そして、飛ぶ者ほど、飛べない者に憎まれる者はない。
かれらは、不公正と汚物を、孤独な者に向かって投げつける。(中略)
孤独な者よ、あなたはあなた自身の道を歩むのだ!
             『ツァラトゥストラはこう語った』 第一部 創造者の道
http://d.hatena.ne.jp/mui_caliente/20080804

「超人を目指して飛ぶ一本の矢」
苦悩の中で、ともすると諦めたり卑屈になってしまいそうな弱い心を踏み越えて
常に人生の高みを目指して飛び続ける一本の矢でありたい。
「超人」とは、今の自分を超えようと闘い続ける人のことだから...

今はどんなに情けない姿であっても、心ひとつで今この場所で即「超人」になれるのだから

↑ 先週 大阪滞在の合間に行った丹波にて..