『噛みきれない思い』

平日は5時過ぎに自然に目が覚めるのに
昨日も今日も7時までぐっすり眠ってしまった。
出張生活には慣れていたはずだけれど
2年間、ほとんど出張がなかったので
慣れないベッドでの連泊は、
無意識のうちに疲れがたまっているようで...
早く慣れなければいけない。


田舎生活で、周囲に店もなく車もないので 用事を思いついても何もできない。
その分土日にしわ寄せが...

買い物もその一つ。
1月も中旬に入ったのにシステム手帳のDIALY PLANを入れ替られずにいた。
一年前に買ったスリムサイズのリフィルが、どこにも売っていないからだ。
伊東屋にあることを確認して、青葉台へ...
しかし、人気がないのか?本体も売っていないし、リフィルも数種類しかない。これでは、使い勝手が悪い。
思い切って、スリムサイズは諦め、ノートとしても使えるようにA5サイズを購入↑


ついでに本屋にも寄って2冊購入。最近、読書のペースも遅くなりがち...
一冊は 鷲田清一という哲学者のエッセー集『噛み切れない思い』..タイトルに惹かれて買った。
もう一冊は『文豪さんへ。』という短編集。 近代文学を原点に生まれた現代作家の短編集。

噛みきれない想い
筆者が歯医者の待合室で見た光景から始まる。
ある幼児が待合室に置いてある絵本をみつけ、お母さんに「あれ、読んで」とおねだりする。
お母さんは、子供を膝に載せて絵本を読み始めるが...
子供が絵本を覗いているのは最初だけ、いつしか隣の子供のおもちゃに気をとられ、目は必死でおもちゃを追う。
お母さんが読み終え、子供の気がよそに行っているのに気がついて本を閉じる。
そうすると間髪をいれずに「もう一回」とおねだりする。お母さんはまた読み始めるが、子供はまたおもやを追う。

たぶん、話の中身が重要なのではない。話の中身以上に母親の声が自分に向けられていることが大事なのではないか
つまりは、言葉の意味よりも言葉が自分に語りかけられているというシチュエーションのほうが、
テキスト(物語の意味)よりテクスチュア(母親の声の肌理(きめ))のほうが。
子供はおそらく、じぶんが、いわば独占的に、母親の意識の宛先になっているという状況に浸っていたのである。
(中略)
なれた朗読から響いてくるのは、不特定のひとに向けられた声だ...(中略)
子供が朗読に求めるのはそういう声ではない。じぶんがだれかにたいせつにされていると感じられること。
それをこそ子供は望んでいる。(中略)
背後に社会が透けて見えない、もっぱらわたしのみを宛先としている声...そういう声のやりとりの中で
ひとはまぎれもない<わたし>になる。
<わたし>を気づかう声、<わたし>に思いをはせるまなざし。
それにふれることで、わたしは<わたし>でいられる。
                         『噛み切れない思い』より「届く言葉 届かない言葉」

こどもだけではない。大人だって、そういう声が聞きたい。しかし...
情報手段が豊富になり、あらゆる形で情報を伝達することができるようになった いまの時代。
情報量は多くなったはずなのに、なにか物足りない。
おたがいの存在を五感で感じ、気づかい思いやりながら話す。相手にだけ向けられた言葉...
もっと言うなら、何も話さなくても伝わることだってたくさんあるはずだ。

何をしてくれなくてもいい、ただいてくれるだけでいい、とだれかに言いたいことがある。
裏返して言えば、何をするわけでもないが、ただ横にいるだけで他人の力になれることがある。
仲間が隣室にいるというだけで、勇気がわいてくる。家族が待っているというだけで、荒まずにいられる。
だれかに聴いてもらえるだけで、こころが楽になる。幼子がそばにいるだけで、気持ちがほどかれる。
そのような思いに浸されたことが一度もないなどというひとなど、おそらくいまい。
                         『噛みきれない思い』より「受け身でいるということ」

そんなことを評価しない社会...
しかし...そんな友こそ、一番必要なのだ。
深い心をもって、人と接していかねばならない。
人に対するときに、その人格とまっすぐに向き合うことを意識していかなければならない。
哲学とは、人間らしく幸福に生きるための思索なのだ。
そして、それは実践することによって価値を生む。