『臆病な自尊心』『尊大な羞恥心』

先週末に彦根で買った文庫本をポケットに入れて
新幹線に乗り込んだ。
文豪さんへ。近代文学トリビュートアンソロジー (MF文庫ダヴィンチ) (MF文庫ダ・ヴィンチ)
『文豪さんへ。』ダ・ヴィンチ編集部編
近代文学の名作をモチーフに現代作家が書いた短編。モチーフになった名作も一緒に掲載されている。


中島敦の『山月記』を初めて読んだのは
たしか高校の教科書だったように記憶している。
主人公の男があるとき突然発狂し虎になってしまう物語。
この小説を取り上げたのは、田口ランディ...彼女が語る『山月記』観の見出し...
「大人になって自らの愚かさをわかって読むと、その切なさに胸を打たれる」
そして30年ぶりに『山月記』を読んだ。


李徴という男は、有能であったが身分の低い役人に甘んじて、能力のない上司に従うことを潔しとせず
山に籠って詩作に没頭する。しかし、名をあげることはできず、生活は日を追って苦しくなる。
遂に妻子の衣食のために山を降りて役人に戻る...しかし...
かつての同輩は遥か高位に進んで、彼が昔ばかにしていた人々の命令を受けなければならない...
公用で旅に出た途中で突然発狂して姿をくらまし、そのまま行方不明になってしまった。
そう、彼は虎になってしまったのだ。


或る時、山中でかつての友と偶然出会い、あわてて叢に隠れる。
気がついた友は虎になった李徴に語りかける。李徴は、友に姿を見せられず叢の中から応える。
李徴が来し方を回想し始める。

何故こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依れば、思い当たることが全然ないでもない。
人間であったとき、己は努めて人との交わりを避けた。人々は己を倨傲だ尊大だといった。
実はそれが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。
もちろん、かつての郷党の鬼才と言われた自分に自尊心がなかったとは言わない。
しかし、それは臆病な自尊心と言うべきものであった。
己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりしなかった
かといって、また、俗物の間に伍することを潔しとしなかった。
共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。(中略)
人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣にあたるのが、各人の性情だという。
己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。

最初のテーマに戻る。
自分という人間の愚かさを知ったときに、この物語はあまりにも切なく心に響く。
李徴は、自分自身の姿でもある。虎は自身の中にも存在するのだ。


それに負けるか勝つのか...猛獣使いは自分自身である。
「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」に食い破られぬように
師を求め、友と交わって自らを磨いていかねばならない。