魂のピアニスト

幸福な家庭はすべて似かよったものであり、不幸な家庭はどこもそのおもむきが異なっている

トルストイの『アンナ・カレーニナ』の冒頭の一行であるが
一人の人間に言い換えれば
「平穏な人生はすべて似かよっているが、苦難の人生は様々な色に彩られている」
とでもなるのだろうか...
フジコ・ヘミング 魂のピアニスト (新潮文庫) (←クリックすると内容が見れます。)
最近出版された文庫版が本屋で平積みにされていて、たまたま手に取った。単行本の出版は2000年
彼女の名前が日本で知られるようになったの1999年。実に67歳の時。
元々クラシックはよく聴いていたが、フジコという日本名のピアニストが突如現れたと思ったら
若いピアニストではなく、おばさんだったので疑問に思った。なぜ今頃?...と
ベートーヴェンのように耳が聴こえないと聞いてさらに驚き、CDを何枚も聴いて、また驚いた。
これでもかこれでもかという苦闘の人生。一気に読み切った。


1932年ベルリン。スウェーデン人の建築家である父と日本人のピアニストである母の間に生まれ5歳まで過ごす。
日本に帰った直後、父は妻子を残して国に帰ってしまった。極貧の生活を余儀なくされる。
そのうえ戦前から戦中、外国籍であるだけで差別されて、日本の国籍もとらせてもらえない。
そんな中で母からピアノを叩き込まれ、やがて才能を現わしていく。
16歳、中耳炎をこじらせて右耳の聴覚を失う。大きな挫折...それでも負けない。
ドイツに行くことを決意するが日本国籍がないためパスポートも取れず、難民という形でドイツに渡ることに...
ドイツに渡った後も極貧の生活はさらに厳しいものになっていく。ドイツ人でないことで苛められ...
それでも音楽しか生きる道がないと心に決めて闘って闘って闘い続ける。
多くの一流の人たちにその才能を認められるが、貧しいが故にスポンサーは付かず発表する場もない
日本からは若い演奏家がレコード会社後押しで次々にやってくるが、彼女にはチャンスは来ない。
1970年、38歳にしてレナード・バーンスタインとの出会いで初めて手にしたチャンス。
しかし、その大舞台の1週間前高熱で左耳の聴覚も失ってしまう。
隙間風の入るボロアパートで風邪をこじらせ高熱を出したにも関わらず病院に行くお金もなかったためである。
左耳はその後半分ほど聴覚を取り戻すが...演奏家として最も大事なものをほとんど失ってしまったのだ。
なんと残酷な運命。ベートーヴェンの生涯と重なる。
苦闘に打ち勝った精神は、なぜか人の心を温かく包み慰める。

彼(ベートーヴェン)は、悩み戦っている人々の最大最善の友である。
世の悲惨によって我々の心が悲しめられているときに、ベートーヴェンはわれわれの傍へ来る(中略)
彼から、勇気と、たたかい努力することの幸福と、そして自己の内奥に神を感じていることの
酔い心地とが感染してくるのである。
                     ロマン・ロランベートーヴェンの生涯』

芸術の深みに至るには、やはり人間としての苦闘が必要不可欠なように思う。
それは演じる側にも受け取る側にも...
フジコ・ヘミングが日本の聴衆に感動を巻き起こしたのは67歳。
自分の不甲斐なさが恥ずかしい。まだまだこれから...人間として成長しなければ...