若いころに情熱を持つことはたやすい。
しかし、年齢を重ねるうちに、世間の塵芥にまみれ、惰性に流され、現実の厳しさを知り...
やがて情熱などという青臭い言葉を忘れてしまう。
NHKの『知るを楽しむ』という番組に、我が愛する宮本輝氏が出演していた。
三重の藍さんが知らせてくれたのだが、今日は再放送の第4回 最終回だった。
今日のテーマは「50歳を過ぎた情熱」
宮本氏が、若いころある人に「私は50歳を過ぎた情熱しか信じない」と言われたというエピソード。
以前にエッセーでも読んだことはあったが...それについて縷々語っておられた。
宮本氏がこの言葉の意味を考えているときに知った歴史上の人物。鳩摩羅什(くまらじゅう)。
今から1600年前、シルクロードの要衝クチャに生まれた僧侶である。
国王の甥として生まれ9歳で天竺に旅をして小乗仏教に通達し、その後大乗仏教に出会う。
12歳にして、原語のサンスクリット語の膨大な経典をすべて漢訳するという決意を生涯の使命と決める。
しかし、その後国が滅び、囚われの身となり、苦難の生活を送る。
自ら決めた仕事に就くことができたのはなんと50歳の時であった。
長安に招かれ、それから漢訳を一気に進めていく。
気の遠くなるような膨大な仕事を、凡そ人間業とは思えない速さで進めていく。
法華経をはじめとして、300余巻の膨大な経典を漢訳し、60歳にして没する。
仏教にはいくつかの漢訳があるようであるが、
彼の翻訳は、音訳と意訳を交えながら、格別に美しい言葉でつづられている名訳であるという。
内容が偉大であっても、難解な言葉では人々に受け入れられない。
難しいことを平易な言葉で、そして美しい言葉で伝えたからこそ仏教は中国を経由して韓国・日本と流布した。
彼がいなければ、現在の仏教の流布はありえなかったわけである。
仏教への興味の有り無しにかかわらず、西紀350年ごろに、そのような少年が生まれ、生き、
おのれに誓ったことを成し遂げて生を終えたという歴史的事実は、私の心に深く捺されて消えなかった。
私も、私のできる分野において、そのように生きたいと思ったのだ。
そして、私はいつの日か、鳩摩羅什が歩いた道を自分も歩こうと決心したが、
その機会を得ないまま約20年が過ぎた。
人間の情熱は移ろいやすい。
宮本 輝 『ひとたびはポプラに臥す』
そして、宮本氏48歳の時、阪神大震災に遭う。
一歩間違えれば死んでいただろうという自宅の惨状を見て、旅に出る決意をしたという。
40日間に及ぶ6,700kmの過酷な旅の中で、「50歳を過ぎた情熱」の意味がわかってきたという。
しかし、それは言葉にはできないと....
旅の始まりに、ある人に宛てて書いた手紙の中に次のような下りがある。
...名古屋空港から西安への直行便である中国西北飛空公司の機内で、
二十年前にあなたに熱をこめて語った私の言葉を思い出し、
それを何度も胸の中でつぶやきました。
おぼえていらっしゃいますか?そう、「少年よ、歩き出せ」という言葉です。
(中略)
「二十八歳なんて、子供だよな。でも、おれたち人間が生きては死に、
生きては死にを繰り返しながら、始めもなければ終わりもない宇宙の生命と混じり合ってるんだって考えれば、
百歳の老人だって少年にすぎないよ。少年よ歩き出せ。
おれは鳩摩羅什という人のことを考えるたびに、
少年よ歩きだせって言葉を自然に胸の中でつぶやいてしまう。おれも歩きださなきゃ....」(後略)
宮本 輝 『ひとたびはポプラに臥す』
ムイカリエンテ、50歳を目前に控えて突然人生の転機に遭遇した。
苦しい月日ではあったが、考えてみれば自分を見つめるには絶好の機会だったようにも思う。
「私のできる分野において、そのように生きたい」という一行が深く心に刻まれた。
自分にしかできない使命というものは、どんな人にも必ずあると思う。
しかし、情熱が薄れていったときに、それはぼやけてしまうのだ。
50歳を過ぎ、60歳を過ぎても、情熱を持ち続けてわが道を歩き続ける人生でありたい。
何の情熱もなくただ食べて遊んで寝るだけの無為に日々を送る人生など断じてごめんだ。
生涯、少年の心で...「少年よ歩き出せ」...いい言葉ではないか。