出会いの不思議

mixiのコミュニティーで、
宮本輝のエッセー『命の器』について言及されている方があり
十数年ぶりに読み返してみた。
命の器

運の悪い人は、運の悪い人と出会いつながりあっていく。...(略)
心根の清らかな人は心根の清らかな人と、
山師は山師と出会い、
そしてつながり合っていく。...(略)
どうしてあんな品の悪い、いやらしい男のもとに、
あんな人のよさそうな美しい女が嫁いだのだろうと首をかしげたくなるような夫婦がいる。
しかし、そんなカップルをじっくり観察していると、やがて、ああ、なるほどと気づくときがある。
彼と彼女は、目に見えぬ人間の基底部に、同じものを有しているのである。...(略)
企んでそうなるのではなく、知らぬ間に、そのようになってしまうのである。
抗っても抗っても、自分という人間の核を成すものを共有している人間としか結びついていかない。
その恐ろしさ、不思議さ。
私は最近、やっとこの人間世界に存在する数ある法則のひとつに気づいた。
「出会い」とは、決して偶然ではないのだ。
でなければどうして、「出会い」がひとりの人間の転機となりえよう。...(略)
どんな人間と出会うかは、その人の命の器次第なのだ。

そう考えてみると、出会いということ自体不思議であり恐ろしいことにさえ思える。
この一年を振り返ってみて自分はどんな人と出会い関わってきただろう。
基底部が違っている人とは、すれ違って離れていくものだ。
逆に、ずっとずっと付き合い続けている人々とは、
必ず基底部に何か同じものがあるということなのだろう。
偶然ではなく、必然的に出会っているのだとすれば、その人々は、自分を映す鏡なのである。
自分のことはわかっているようでわかっていないものだが、
その人々を見れば自分という人間の傾向性が見えてくるのかもしれない。
ひとりひとり思い出せば、ああそういうことなのかと思うことも多くある。
器の大きさに応じて、そこに入る水の量は変わっていくし
器が汚れていれば、そこに注がれる水もまた汚れてしまう。
器が清潔であれば、水もまた清らかなままである。
自らの内なる器を磨き大きくしていくためには
やはり人と出会い、触れ合い、絡み合っていくしかないのだ。
さて、明年はどれだけの出会いを作っていけるのだろうか。