「贅沢な青春」

血の騒ぎを聴け

血の騒ぎを聴け

学生だったころ、私は、書店の文庫の棚の前でずいぶん長い間立っていた。
その時間を合計すれば、何十日にも相当しそうである。
「あれを読もう」と最初からめぼしをつけて文庫本の棚に歩み寄ったことは、ほとんどない。
なにを読もうかと背表紙を眺め、手に取り、書き出しの数行を読み、解説に目を通し、
ためらってためらって、別の文庫本に目を移す。
そのときの、何を読もうかと迷う私の目は、
おそらく青春時代における最も気概と熱気と冒険心に満ちたものであったろう。
私という汚れた人間が、唯一、澄んだ目を輝かせる場所は、文庫本の棚の前であった。
私は、それを思うと貧しかった当時の、いろいろな情景などどこかに押しやって、
ああ、贅沢な青春時代であったなと感謝する。
文庫本というものがなければ、私は世界の名作に触れることもなく、何が真のミステリーであるかも知らず
何を人生の不思議と言うのかも学ばず、猥雑なおとなの群れに、よろよろと加わっていったに違いない。

宮本輝の『血の騒ぎを聴け』に収められた随筆の一つである。
一冊の書物に秘められた宇宙大のロマンやミステリアスの世界
打ち震えるような感動を知らない人が増えていることは、実に悲しむべき現実である。
良書は、人間の心を壮大な旅へと誘い、心を大きく豊かにしてくれる。
私が最も心を洗われる書物は、その宮本輝の小説である。
現実の厳しさに打ちひしがれて、自分が弱弱しくなっている時に
宮本文学を読むと、いつしか心が浄化され瞳が輝きだすのが、自分でもわかる。
こんな贅沢な瞬間を、自分だけが享受することがもったいなく思って
知人...特に青年には、必ず読書の喜びを語ることにしている。