足元に揺らぐ花影にはっとして、目をあげた。
蒼い空に舞い立ったかに見えたのは、蝶の群れと見紛うばかりの
夥しい数の辛夷の花だった。
微かに残った冬のなごりが消えゆく間際のため息のように
春のはじめにふわりと咲いて消えてゆく よるべなき花
儚いいのちを知ってか知らずか
薄絹のような柔らかな花びらをひろげて、
春の陽射しを吸い込んでうなじを紅く染めていた。
ときおり吹きつける南風に、花びらをはためかせ
ちぎれて堕ちていくもの...傷んで朽ちていくもの...
散りぎわは、桜のように潔くはない。
俺の頭上で美しく開いた君も、明日は朽ちてゆくのかな...
斯くいう俺も、ずいぶんと風になぶられて傷だらけだ...
もっとも、君のように枝の先端で華やかに咲いたこともなければ、
人の注目を浴びたこともなかったのだが...
そして、もうそんなに長くはない...
そんな言葉を投げかける。
ずいぶんと遠くに流されてきたものだ。
抗おうにも抗えきれなかった宿命に、あるいはもがきあるいは身をまかせ
気付いたら、思いもよらぬ場所に辿り着いていた。
誰も知らぬ一枚の花びらのようなものだ。
どこに流されようと、誰も気づきはしない。
幾度見直しても影の薄れた自分の顔が、やっと見え出したと思った途端、
こいつが宿命的にあんまりいい出来ではない事を併せて見定めた。
御蔭で(この御蔭でという言葉を忘れてくれるな)今の俺は所謂余計者の言葉を確実に所有した。
君は解るか、余計者もこの世に断じて生きねばならぬ。
小林秀雄『Xへの手紙』
- 作者: 小林秀雄
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1962/04/12
- メディア: 文庫
- クリック: 14回
- この商品を含むブログ (40件) を見る
咲かなくてもよかったような花だと思う。
けれど、なんの因果かこの世に人として生まれてしまった。
余計者を自覚したのは、いつだったかな...
たとえ社会が俺という人間を少しも必要としなくても、俺の精神はやっぱり様々な苦痛が訪れる場所だ。
俺は今この場所を支えているより外、どんな態度もとる事が出来ない。
そして時々この場所はが俺には一切未知なものから成り立っている事をみて愕然とする。
(中略)
耳もとで誰かがささやく、「何故お前はもっと遠い処に連れて行って貰わないのか。
お前の考えている幸福だとか不幸だとか、悲劇だとか喜劇だとか、なんでもいい、
お前が何かしらの言葉で呼んでいる人生の片々は、お前がどんなにうまく考え出した形象であろうとも、
そんなものは本当のこの世の前では、
...さあなんと言ったらいいか、いやお前は何故大海の水をコップで掬う様々真似をしているのだ、
....何故お前はもっと遠い処に連れて行って貰わないのだ。
囁きはやがて俺を通過して了う。そして俺は単に落ち着いているのである。
俺は今すべての物事に対して微笑している。ただ俺にもよく解らない深い仔細によって、
他人には決してそうは見えないのだ。
前掲書
俺のうんざりするほどの人生から見たら、君のいのちはあまりに短い
宇宙の時間から見れば俺の人生も星の瞬きにも及ばないのであるから
たいした差はないのかもしれないが...
美しい君の姿も、あと数日もすれば朽ちて土に還っていくだろう。
俺はもう少し生きねばならない。
生死のあわいに射しこむ淡い陽射しを見上げながら、大海に身をまかせていくさ。
もう会うこともないだろうが、君とのえにしは忘れまい。
それでは失敬...
風が吹いて、また幾枚かの花びらが揺らめきながら落ちてきた。
朝から胸の奥につかえていた重い塊は、いつのまにか消えていた。