今週は、滋賀から神戸・大阪・奈良と関西出張
移動の時間がタイトできつかったが
会社でつまらない茶番劇をみているよりはましだ。
大阪の夜は、老人の相手をして串揚げ屋で飲んで
その後は、久しぶりのミナミをひとりで徘徊...
酔った頭脳に湧き起ってくるのは
懐かしさというようなものではなく
ただただ虚しさばかり...
手垢で暖簾が汚れた立ち飲み屋で、硬いホルモンをアテにコップ酒を煽り、
虚しさはいよいよ際立ってっくる。
帰りの新幹線で『罪と罰』の上巻を読み終える。
この作品を読み始めたきっかけは、小林秀雄の書いた一行の文章であった。
生きて行く理由は見附からぬが、何故死なないかが解らない。
そういう時に、生きる悲しみがラスコオリニコフの胸を締め付けるのである。
小林秀雄 『罪と罰』についてⅡ
生きている理由がわからないのに、生きているという苦痛...
いつか死ぬと決まっているのに、生きなければならない悲しみ...
引きこもりの貧しい学生、ラスコーリニコフ
彼が高利貸しの老婆から借りた金で行った酒場で出会った卑屈なアル中男、マルメラードフ
その娘で、父の後妻と連れ子たちを養うため娼婦をしている18歳のソーニャ...
どうしようもなく、手に負えず、過剰で貧しくて暗鬱な人々
- 作者: 齋藤孝
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2008/05/28
- メディア: 文庫
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どうしようもないという言葉は、なっていない、非社会的で逸脱しているという意味も含んではいるが
それ以上に、周りの人がその人に対してどう手を打っていいのかわからないというほどに
過剰なエネルギーを持った人々というニュアンスを込めたい。
(高速で回転するコマのように)ドストエフスキーの描く人々は危険な加速度を持って回転している。
斎藤孝氏『ドストエフスキーの人間力』
生きることの意味を見いだせないラスコーリニコフが、
一つの微細な罪悪は、百の善行に償われるという思い上がりから、強欲非道な老婆を殺し、
そして行き場を失い、行き場を探し求めるという物語だ。
殺人を犯してからラスコーリニコフは、どんなことをしてでも生きたいと思うようになるが、
生きる場所が見つからない。
ラスコーリニコフはの頭の中には、マルメラードフに言われた言葉がその後も渦巻く。
「<<わかりますか、わかりますかね、学生さん、
もうどこへも行き場がないということが、どういう意味か?>>
(中略)<<なぜって、どんな人間だってどこか行けるところがなかったら、やりきれませんよ....>>」
ドストエフスキー『罪と罰』第一部
マルメラードフの一言は、ラスコーリニコフの胸を刺す。
ところで、自分が生きる場所を見失ってしまったのは、いつからだったか...
確たる生き方ができずに、何かを求めるようなふりをして、勇気も決断もなく
ただうろうろ放浪をしているだけだ。
意味のない徘徊...意味のない生...
しかし、斎藤氏は綴る...
たしか私の記憶では、安倍公房が亡くなった後に発見されたフロッピーの中から
ドストエフスキーという作家のすごいところは、
どんな人間でも、この世に存在していいんんだということを教えてくれたところにある。
という趣旨の文章が見つかったということだった。
斎藤孝『ドストエフスキーの人間力』
どうしようもない、過剰な人たちとの旅は、まだ続く...
おまけ....
出張一日目、野洲の客先に行く前に近江八幡で途中下車し
地元に住む友人のMさんに以前教えていただいた「ティファニー」でひとりランチ@1200円
近江牛の老舗、カネ吉山本本店の二階にある直営レストラン。