干潟の夕焼け

海が金色に輝き始めた。

 

熊本県宇土市御輿木海岸
宮崎出張が、またしても台風通過にあたってしまい
新幹線で九州入り...
しかし、台風は日本海に逸れていった。
夕方早くに着き過ぎたので、天草方面に寄り道...

 

三角(みすみ)線に乗ったのは初めてだった。
初めて見る島原湾は遠浅で、
潮が引き、広大な干潟が姿を現しはじめていた。

 

終点の三角で降りて、天草諸島の入口まで散策し、

日没に間に合うように、干潟に引き返した。

 

駅から歩いて10分...開けた視界に、いきなり眩いばかりの海が飛び込んできた。

堤防の先まで歩いて、島原半島の南端に沈む夕陽を見守る。
この広大な金の海には、見渡す限り自分しかいない...
なんという贅沢 
なんといく幸福

 

金色はやがて朱に変わり、そして陽は瞬く間に山の端に落ちていった。


生涯忘れられない美しい風景を眺めながら
最近読んだ小説の、美しい人間たちの姿を思い浮かべていた。

 

水神〈上〉 (新潮文庫) 水神〈下〉 (新潮文庫)
『水神』帚木蓬生
島原の乱の時代
久留米藩で起こった大事業... 実話をもとにした小説である。

 

悠然と流れる筑後川...
それを見下ろす台地にあるその村々には、その水の恵みは届かなかった。
田畑は常に枯れ、人力で川から水を汲みあげる打ち桶という作業だけが頼りだった。
庄屋の助左衛門は、地勢を入念に調べ上げ、堰を作り水路を巡らすことを思いつく。
そして、信頼できる4人の庄屋と力を合わせてお上に嘆願をする。
しかし、竜のような巨大な川をせき止めるなどとは誰も信じ難い。
藩は財政難でそのような事業ができる金がない。
多くの反対意見・誹謗中傷・妨害行為が巻き起こる中で、五庄屋は命も財産もすべて差し出す。
これに賛同した老侍が、諸奉行を説得して嘆願が受入れられた。
藩命で始まった工事   百姓のために命を差し出した庄屋そして侍...
幾重にも襲ってくる危機...しかし、彼らの覚悟が、すべてを変革していく。
工事に駆り出された村々の百姓が、嬉々として働く姿を目にして
反対派の急先鋒であった藤兵衛が、助左衛門を訪ねるシーン

藤兵衛はそこで、初めて口元をゆるめた。
「歩きながら、昔のこつば思い出しておりました。
もう随分小さか時分のことですけん、六十年も前になるでっしょか。
その年、よか雨ばかりが降って、菜種がようできた年がありました。
そりゃ一面に見事な花ばつけて、背丈も子供の顔が埋まるくらい高かったとです。
私も子供心に何か浮き浮きしとったとでしょうか、菜種畑の中を何回も行ったり来たりしました。
顔や首が黄色に染まるのが嬉しく、そしてまた、あの菜種の花の匂いが何とも言えんでしょうが。
夕方、家に戻ったところ、祖母にえろう叱られて、井戸端で水をかぶせられました」
 藤兵衛の頬がさらにゆるみ、笑顔になった。
「ばってん、菜種があげんようできたのは、あの年限りでした。
あとの年は、立ち枯れや、背丈が低かか、花も少のうて、実もかすかすだとか、満足にできた年は、ひとつもなかとです」
「ほんに、そげんです」助左衛門は頷く。
「今朝、歩きながら、考えました。今年の菜種はだめかもしれんですが、
来年は、水が田畑に行き届くようになりますけん、立派な菜種が育つのじゃなかかと、思ったとです。
六十年前に、何かこう徒花みたいにようできた菜種で、あれは夢だったかなと、
うつつとの境目もつかんごつなった今、もう一度、六十年前の本物の菜種畑を見らるるような気がするとです』
「そりゃ、間違いなかでしょ。来年の春の菜種は違うと思います。一面、畑は真黄色になると期待しとります」
助左衛門もつられて目を細める。
「そしたら、私は村のもんから気づかれんように菜種畑に出て、ふんどし姿になって、
株の間を思い切り走ろうと思っとります。
村の百姓に見つかると、とうとう藤兵衛がおかしくなったと言われるかもしれまっせんが、六十年ぶりです。
私か顔中、真っ黄い黄いになっても、もう文句を言う者もおりまっせん」
藤兵衛は目尻に皺を寄せて笑った。助左衛門が初めて眼にする藤兵衛の打ち解けた顔だ。
「よか話は聞かせてもらいました」助左衛門も口元をゆるめた。
「助左衛門殿、長か話はして申し訳ございません」
急に藤兵衛が真顔になり、居住まいを正した。
「ほんにこのたびのことは、とんだ迷惑をおかけ申した。
どうか、耄碌の始まった年寄りがしたことと思うて、許してつかあさい」
藤兵衛は後ろににじり下がり、畳に額をつけた。
    帚木蓬生『水神』下

他者のために、いのちを差し出す覚悟...そして決死の行動...
人間の真実な生き方が、この物語には溢れていた。
この人たちは実在した...
そして、ほとんどが青年ではなく、自分と同じ壮年であった。

自分は、他者のためにいったい何ができるのだろう...

 

やがて陽が沈み、空も海も雲も闇に包まれていった。

心もとないような電球の列は輝きを増し

海への道しるべとなって、波のない漆のような水面でゆらゆらと揺れていた。