『涙の理由』人はなぜ涙を流すのか

脳科学者 茂木健一郎氏と
小説家 重松清氏が
涙をテーマに対談をした。
涙の理由

イカリエンテは、とっても涙もろい。何かというと涙があふれてきてしまう。
本を読んでいるとき、映画を観ているとき、音楽を聴いているとき...不覚の涙が多すぎる。


最近のマスメディアは感情を誘導する向きがある。
ニュース番組は、人気キャスターにあたかも事件の当事者であるように
怒りや悲しみや喜びの感情を露わにさせて、視聴者の感情を誘導し
ワイドショーではさらに、亡くなった人の葬儀の場面にモーツァルトのレクイエムをかぶせたりして
感情を煽る。
映画の予告では、試写会で泣いている人の顔を映して、百万人が泣きましたみたいなコピーを打ち
まるで泣かなければおかしいような宣伝をする。
しかし、涙には、その人の心にしかない感性とか記憶とかいう複雑なロジックがある。
それが、その人の心の中ではまった時にしか本当の涙は流れないのである。


ノーベル物理学賞を受賞したリチャード・ファインマン氏は、自伝でこんなエピソードを綴っている
彼は妻アイリーンを亡くしたとき涙を流せなかった。しかし一か月くらいたったある日
街を歩いているときに、洋服屋でアイリーンが気に入るだろうという服を見つける。
そのときに「そうか、アイリーンはもういないんだ」と思い、彼は顔を覆って泣いた。

茂木:やるせないと感じているときしか、人間は本当に生きていない気がします。
むしろ、その状態を消したくない。そういうときに「自分が世界にいることの不思議」と向き合っている
重松さんの小説で云えば、愛する人が死んでしまった後、段々とその事実が消えていくという
やるせない気持ちがあったほうが、その人は生きている。
その後、日常に戻っていく、それは生きるためには必要なことではあるけれど。
いつ、どの時に「一番生きていた」と感じていたかを思い浮かべると、
実はやるせなく感じていたときだったりするんじゃないですか。
                      『涙の理由』やるせなさと涙の関係

清原が西武時代に日本シリーズで巨人と戦ったとき、あと一人で優勝が決まるという瞬間に
清原は、一塁の守備につきながら号泣していたというシーンを受けて...

茂木:清原の涙や、あるいはリチャード・ファインマンの涙は一生に一回なのかもしれなくて、
そういう意味で言うと、涙は大変に複雑な認知的パズルをはめないと、成立しない。
一回性の涙は、ある意味では研究もできないし、本質も把握できない。
だからこそ、皆の注意は、繰り返し可能な安易な涙に向かう。
でも、人生で本当に大事なのは、ただ一度だけしかパズルがはまらないかもしれない涙のほうですよね
(中略)
重松:「万感に迫る」というじゃない。やっぱり、一万の感情が胸に迫ったら、それは涙も出てくると思うんだ
けれど、その万感に足りない人たちは困る。だから悩んだり、迷ったりしながら達成すれば、
万感の種はいっぱいあると思うけれど、すんなりと達成してしまったら、逆に万感がないから
涙も出てこない。
                      『涙の理由』涙は神様からの贈り物

重松:おそらく、若いうちの涙は、自分が主役の涙なんだよ。
自分のため、自己中心的な涙なんだよね。「俺」が悔しいとか、「俺」が嬉しい。
でも、年をとると「何か」や「他人」を見て、泣くようになるよね。
「自分が」というよりも、「おう、頑張れよ少年」とか「おばあちゃん頑張って」が増えてくる。
俺は優しくなったと自分で思う。
                      『涙の理由』「ほろっとする」理由

イカリエンテは、本当によく涙を流してしまう。安っぽいかな?
この本を通して、自分にあてはめながら涙の理由を考えた。
やるせないこととか悔しいことの方が圧倒的に多い毎日だけれど、
そこで頑張って頑張って闘っていくなかでしか、生きる意義を見出すことはできないし
本当の歓喜の涙は流せないのだろうな。