一歩前へ...

その山間の道が下りにかかった瞬間
広大な沼と、その向こうに海が見えた。
坂を下り、距離が近づいていくにつれ
それは沼ではなく、津波で消えた街が
地盤沈下してできた
巨大な水たまりであることがわかった。
見渡す限り何もない。


野蒜(のびる)海岸から数百メートルにわたって
一気に駆け上がった津波は、すべてを飲みこんだ。
命も街も生活も...ここだけで数百人の人が亡くなった。
震災から10ヶ月余...
瓦礫は一か所にうず高く積み上げられ、周囲には何も残っていない。
写真を撮ることも躊躇われ、タクシーの窓から運転手さんに気がつかれないように2枚だけ撮った。


K大学の一泊研修会...
例年は関東近県で行うのだが、今回は仙台出身のI神奈川支部長の呼びかけで被災地に来た。
自分の眼で見て、被災者の方に触れ、震災を肌で感じることが目的だ。
支部長がネットで見つけた民宿は、半島と島々に囲まれるような場所の海より一段高い場所にあり
建物はかろうじて残ったが、車は流され、客足も遠のいて、今は工事に来る人が素泊まりするだけ...
従業員も解雇せざるを得ず、食事つきの宿泊はできるかどうかわからないとの回答だった。
しかし、I支部長が根気よく宿のご主人と対話を重ねられ、やっとその気になっていただいた。
20人近い客が泊まるのは、震災後初めてのことである。
支部長と話し合っていくなかで「一歩前に踏み出そう」という気になったという。
どこかで踏ん切りをつけなければいけないと...


タクシーは、民宿の近くにある宮戸市民センターに着いた。
同行したIS教授による講演会を開くため...
スポーツ流体力学が専門で、流体力学から見た泳ぎ方の研究などをされている。
折角の機会なので、面白い講義を地元の子どもたちにも聴いてもらいたい。
そんな思いつきを支部長に提案したところ、賛同していただき、地元のご協力も得て実現した。
民宿のご主人とセンター長さんが全戸にチラシを配布してくださった。
周囲に家など殆どないような場所にもかかわらず、子どもからお年寄りまで、20人弱の人たちが集まっていた。
ここに居られる人たちは、友人や知人や家族など...大事な人を亡くしたり、家をなくしたり...
大きな悲しみの中を一生懸命に生きてこられた人たちだ。
思わず合掌したいような気持ちで、講演中の撮影をしながらファインダーごしに一人ひとりの顔を見る。


講義が終わり記念撮影をしてから、松島の海を見渡せるという大高森山の山頂を目指す。
地元の方々ともう少し話をしたい気持ちもあったが、民宿のご主人が綺麗な景色を楽しんでほしいと
段取りをして時間を気にされているのを見ると、急がないわけにはいかず
急な坂道を一気に上がった。途中、地震で崩れたと思われる大きな岩が転がっている。
山頂の景色は東に太平洋、西に松島が一望にできる素晴らしい景色だった。
雲に遮られて夕焼けは見えず...


山を下って民宿に着くと、壊れていたはずの階段がきれいにセメントで修復されていた。
一つ壊れて男女交代で使っていた風呂場も修繕して皆が温まれるように準備がしてあった。
夕食は、こんな場所でどうやって入手したのだろうというくらい、品数も多く味も美味しい。
物資の乏しい中で自分たちを迎えるために懸命に集めたのであろう料理を見ているだけで胸が詰まった。




感謝の思いできれいに平らげ、他の人が残した料理も残っていては失礼と思い食べる。
そして食べながら、やっぱり来てよかったのだと、改めて思った。
辛い想いを抱きながら、どうすることもできず、半ば諦めかけていたご主人や奥様、そして息子さんご夫婦...
約1年ぶりにこうして宿泊客を迎え、料理を作ることは、やはり大きな喜びだったのではないか...
一歩を踏み出すには勇気が必要だ。大きなエネルギーが必要だ。
一歩の距離は、近いようで遠いのだ。
しかし、一歩前に出なければ何も変わらない。一歩踏み出せば何かが変わってくる。
簡単にはいかないかもしれない。まだまだ困難もあるかもしれない。
でも、一歩前に踏み出すしかないのだ。
支部長のねばりづよい説得は、彼らに勇気を奮い起させ、一歩の勇気を与えたのだ。
それは、すごいことだ。
そして、その姿を見る事で、自分も...多分他の人たちも勇気をもらったのだ。


苦しくなったら、この日のことを、一歩踏み出した人たちの清々しい笑顔を思い出そう。
一歩そしてまた一歩、前に前に歩いていかねば...