悲しみの効用

三連休のうち二日は出勤。


えのころ草が赤く色づくことを
この歳になるまで気が付かなかった。
見ているようで見ていない...
知らないことばかりだと
改めて思う。


先日、ブックオフで久しぶりに新書を数冊買った。

世界最高の日本文学 こんなにすごい小説があった (光文社新書)

世界最高の日本文学 こんなにすごい小説があった (光文社新書)

ここに出てくる小説は、どちらかというとあまり有名ではない。作家は有名でも作品自体はあまり知られていない。
個々の作品は、また機会があれば紹介したいと思うが...
著者、許光俊氏はあとがきをこんなふうに書きだしている。

小説を読むというのは、人間の悲しさに触れることだ。一見喜劇的で滑稽に見える文学だって、
その底には悲しげな何かがある。
モーツァルトの「悲しくない音楽はない」という言葉は有名だが、
すぐれた文学も例外なく悲しいものなのかもしれない。
人間が何を好きこのんで悲しいものを求めるのか、私にはわからない。
けれど、はっきりしているのは、悲しい小説、悲しい映画、悲しい音楽、
そんなものを人間は求めてやまないということ。
悲しいものには、人間の心を清める作用があると、昔のギリシア人が言っている。
けれど、それだけではあるまい。
たぶん、悲しい芸術は人間を慰めることができるのだ。

あらためて本棚を見渡し、自分が読んできた小説の背表紙を眺め、ストーリーを思い浮かべる。
ひとつひとつの小説から、それぞれの悲しみが立ち上っているように思える。
人生とは、なんと数限りない悲しみに満ちているのだろう...
人は自分の人生とは別な悲しみに触れて癒され、そして心を清めていくのか...
言われてみれば、そんな気もする。
だが、それはなぜなのかはわからない。
今読み進めている『神曲』も『楊令伝』も、そして『慈雨の音』も...
それぞれに、人間の悲しみを包含しているように思える。
紅葉の季節が近づくと読み返す『錦繍』も、最初から最後まで悲しい悲しいと思いながら読む。
そして、読み終わったときに、この汚れ切った自分の生命が少しだけきれいになった気がする。
生きている限り、生きようとしている限り...新たな悲しみを求めて
小説を読んでいくのだろうな...
だから、秋はいつも以上に読書が恋しくなる。