乾河道

宮本輝の『三千枚の金貨』
深い感動に包まれながら読了。
下巻の帯にあるコピー
「大きな人間とは」
最終章にさりげない会話に出てくる一言

生きるうえで一番大事なことを
簡単な一言で答えられた。

三千枚の金貨 下

三千枚の金貨 下

この小説は、かつて宮本輝氏が旅をしたシルクロードの風景が、
小説のモチーフになっている。
旅行記としては、『ひとたびはポプラに臥す』全6巻
小説では『草原の椅子』『星宿海への道』などがあるが
「50歳を過ぎた情熱しか私は信じない」という同氏の言葉どおり、
宮本文学らしく、若き日の文章の凄みから、小説というものの凄みへ..
留まることなく熟成を続けている...そんな作品であった。


主人公の斉木光生がシルクロードを旅するきっかけになった、
井上靖の『乾河道』という詩のくだりを抜粋する。

  沙漠の自然の風物の中で、一つを選ぶとすると、乾河道ということになる。
  一滴の水もない河の道だ。
  大きなのになると川幅一キロ、砂州がそこを埋めたり、
  大小の巌石がそこを埋めたりしている。
  荒れに荒れたその面貌には、いつかもう一度、
  己が奔騰する濁流で、沙漠をまっ二つに割ろうという不逞なものを蔵している。
  そしてその秋(とき)が来るのをじっと待っている。
  なかには千年も待ち続けているのもある。
  実際にまた、彼等はいつかそれを果たすのだ。
  たくさんの集落が、ために廃墟になって沙漠に打ち棄てられている。
  大乾河道をジープで渡る時、いつも朔太郎まがいの詩句が心をよぎる....
  人間の生涯のなんと短き、わが不逞、わが反抗のなんと脆弱なる!


光生は、その乾河道の写真に見入り、その一遍の散文詩を読んだとき、
俺はここに行きたいと思った。
この、干あがって死んだふりをしている大河の跡の、かつての河底にひとりぽつんと立ってみたい、と。
その思いは、一瞬のきまぐれな衝動とは趣を異にしていた。
日がたつごとに、巨大な乾河道の最も底深い場所にたたずんでいる自分の姿が
鮮明な映像となって心にあらわれ続けるのだ。
乾河道のいったい何が自分という人間の心を騒がせ続けるのか、光生にはよくわからなかった。
だがそれが自分のなかに眠っている何かを大きな力で激しく揺り動かしたいことだけは間違いなかった。

「人間の生涯のなんと短き、わが不逞、わが反抗のなんと脆弱なる!」...か
自分は、なんと弱々しい人間なのだろう。
強くならなければ幸福にはなれない。
千年、二千年...野望を抱き続けながら時を待つ乾河道のように...


「大きな人間とは」...
決して複雑ではない、簡単なことなのだ。