絶望の力

都会の生活にどっぷりつかって忘れてしまったもの。それは、裸で生きるということ...
人づきあいも、無意識のうちに構えて格好をつけてしまう。
自己防衛の鎧を身につけて、スマートに卒なくやりすごす。
しかし、生命はそんな生き方など欲していないのだ。
『白痴』を読んで、ドストエフスキーに触れ、ここに登場する人たちの自然さには驚嘆する。
過剰なエネルギーを燃やしつづけながら、思うがままに生きる人々
傍から見れば、なんと滑稽なみっともないと思うような人物も現れる。
しかし、これが裸で生きるということなのか...

ドストエフスキーは、彼自身の言葉を借りれば、
たとえ、私の苦しい意識が真理の埒外にある荒唐無稽なものであろうとも、
私自身は苦痛と一緒にいたい、真理と一緒にいたくない、と考えたに違いない。
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理想や真理で自己防衛を行うのは、もう厭だ、自分は裸で不安で生きていく。
そんな男の生きる理由とは、単に、気絶できずにいるということだろう。
よろしい、充分な理由だ。
他人にはどんなに奇妙な言い草と聞こえようと自分は敢えて言う、自分は絶望の力を信じている、と。
若しなにかが生起するとすれば、何か新しい力が生じるとすれば、ただ其処からだ。
                小林秀雄 <『白痴』について>

「希望を持って生きよ」と言われる。
希望が何なのか...漠然として、さっぱりイメージができない。
自分の行く手に明るい未来があるようには思うことが、正直できない
絶望の力... 
楽しいことより苦しいこと、うまくいくことよりうまくいかないことの方が
圧倒的に多くなってしまった、
だからこそ、裸で不安のままで生きていく覚悟をしなければ...
絶望の力...何か新しい力が生じるとすれば、ただ其処から...
絶望の果てに生じるものがあるのだろうか?


周囲が暗いからこそ、自分のエネルギーを発していくしかないのだろうが...
自分はそこまで至っていない。



都会には偉大な風景が見当たらず、去年の未公開写真を公開していく。
今日は、一年前に撮った二見が浦の旭日。
闇の中から現れる太陽は美しい。一直線に私に命を与え、あらゆる生命に力を与えていく。
さあ立ち上がる時が...