朝からニュースは長野の聖火リレーの話題ばかり
スポーツの祭典の一行事に政治問題を持ち込んで、力で妨害しようなどという行為は見ていて情けないし
それを何千人もの警官が囲んで警備するというのも、馬鹿げた姿である。
もちろん便乗して騒いでいるだけの馬鹿どもも多くいる。
マスコミもレベルが低く、たまたまヘリコプターやカメラを持っているだけの野次馬にすぎない。
チベット問題の深い部分はわからないが、闘うのであれば、正々堂々と言論で闘えばよいのである。
自分だけは安全な他国に亡命して身を守り、海外で活動しているダライ・ラマなる人物は
真の民衆のリーダーとは言い難い。
特別な人間を作ってしまう宗教は、人間を差別する思想が根の部分にあり、人間に階級をつけてしまう。
非暴力不服従の旗を掲げて闘ったガンジーのように、人種差別の巨大な壁を打ち破ったキング牧師のように
自由を勝ち取るために、自ら劣悪な牢獄で30年近くも過ごしたマンデラのように...特別な人間ではなく
一人の人間として民衆の真っただ中で自らが一番危険な場所で先頭に立って、心無い批判や中傷を受けながら
傷だらけになって闘った勇気ある人間にしか歴史を変えることはできない。
映画『ガンジー』の中で、彼の思想を象徴する一コマを思い起こす。
英国との闘争を勝ち取った後、こんどは宗教の違いによる闘争が起こってしまう。
ムスリム(イスラム教徒)とヒンズー教徒の対立である。
それをやめさせるための断食をしているガンジーのもとに、一人のヒンズー教徒の男がやってくる。
指導を受け、武器を捨てることを約束したあとで、ガンジーに食べ物を差し出して、
ガンジーを死なせたくないので食べてくれと懇願する。
そして「自分の子どもがムスリムに殺された。だから自分もムスリムの子どもを殺した」と告白する。
ガンジーはその男に「地獄から抜け出る道が一つだけある。子どもを拾ってきて育てなさい。」と言う。
「ただしムスリムの子どもだよ」...
美しいシーンである。
人間がお互いを人間として認めあい尊重していく心を、身を持って体験せよという指導である。
平和とは、民族や宗教・思想などの「違い」の垣根を越えて、人間の結合を築いていく作業である。
逆に、民族や宗教・思想の違いを強調し人間を分断することは「悪」である。
分断することで、民衆は権力に利用され、戦争の火種となっていく。
先日録画しておいた世界遺産の番組で「プラハの春」ビロード革命の映像を見た。
今回の騒動とは対照的である。
1969年の軍事介入の時には、国境を渡って入国してくる戦車に、青年が駆け上がって兵士を説得する姿
放送局が占拠された後も、地下の放送局から民衆の声を流し、詩人は自由を詠い続けた。
1989年共産党の圧政に潰されても潰されても立ち上がる民衆に、とうとう共産党は権力を放棄する。
無血の革命が実現したのだ。広場に集まった民衆の前で、民主化の歌を歌うことを禁じられていた歌手が
中心にある建物のバルコニーに立って、平和の歌を高らかに歌う。
なんとロマンチックな革命劇であろうか。
中国は巨大であるが故にチェコ・スロバキアと同じようにはいかないかもしれないが...
いかに大国とはいえ、人間はどこまでいっても人間である。
ゴルバチョフという賢明な指導者の出現でソ連が一気に変わっていったように、中国も...
その時は必ず来るはずである。