手の国

今週は静岡からスタート。
同僚の運転する車で、まずは富士宮
富士山のすぐ麓だが、曇っていて富士山の姿は見えず。
新しい現場で、設計の打ち合わせ。
夕方、浜松へ移動。
浜松城脇のホテルに宿を取り、浜松の会社の社長の案内で
同僚2人とともに近所のラウンジに飲みに行く。
静岡らしく、お茶の焼酎。
濃厚な玉露で割って飲むと、これがウマイ!
注がれるままに、がんがん飲んで10杯以上は飲んでしまったような...
久しぶりにダンスも披露ヾ(^-^ゞ(゜O°ゞ(._.ゞ(~-~ゞ ヾ^-^)ヾ@_@ ダンスダンス
気持ちよく酔っ払ってホテルに帰る。
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前回「ファウスト」を引用し、行動について書いたが
ここにもう一つ仕事について興味深い記述がある。
柳宗悦著「手仕事の日本」
手仕事の日本 (岩波文庫)

元来我国を「手の国」と呼んでもよいくらいだと思っています。
国民の手の器用さは、誰も気づくところであります。
手という文字をどんなにたくさん用いているかを見てもよくわかります。
「上手」とか「下手」という言葉は、直ちに手の技を語ります。
「手堅い」とか、「手並みがよい」とか、「手柄を立てる」とか、「手本にする」とか
皆手に因んだ言い方であります。
「手腕」があると言えば力量のある意味であります。(中略)
「読み手」「書き手」「聞き手」「騎り手」などの如く
ほとんど凡ての動詞に「手」の字を添えて、人の働きを示しますから
手に因む文字は、大変な数にのぼります。
そもそも手が機械と異なる点は、それがいつも直接に心と繋がれていることであります。
機械には心がありません。これが手仕事に不思議な働きを起こさせる所以だと思います。
手は、ただ動くのではなく、いつも奥に心が控えていて、
これがものを作らせたり、働きに悦びを与えたり、また道徳を守らせたりするのであります。
それゆえ手仕事は一面に心の仕事と申してよいでありましょう。

日本の伝統文化は、特に手仕事と深く繋がっている。
手仕事は、直接「心」に繋がっているというところが、なるほどと思う。
あらゆる仕事がパソコンや機械で処理できるようになった現代。
労働というものの中に「心」が介在することが少なくなり
「悦び」とか「感謝」というものも薄れていく時代。寂しいことである。
イカリエンテも、若いころに職人に憧れたことがあるが、結局その道には進めなかった。
いまさら職業としての手仕事に転向することは難しいのだが...
デスクワークでも、手仕事をする機会がないではない。
たまには料理を作ってみるとか、日曜大工をしてみるとか、土いじりをしてみるとか...
メールではなくて、手紙を書いてみるとか...
例えば、この日記にコメントをいただく"りっぷる"さんは、休日の料理や畑仕事をマメにされているし
おなじく"せとまん"さんは、お菓子作りの達人である。
宇野千代さんの随筆にもhttp://d.hatena.ne.jp/mui_caliente/20070313
「私たちは頭で考えるのではなく、手で考えるのである」とあったように
何がしか手仕事をするということは、そこに悦びを伴うに違いない。
自分自身を振り返ると、最近は忙しさにかまけて何もしていない。
次の週末には、何かしてみようか...