藍織成という店

今日は現場が早めに終わり、
ホテルに戻ってから二見を散策。
変わった造りの店があったので覗いてみると
店にいた女主人から「こんにちは」と声をかけられる。
古風な建物は昭和初期に建てられた宿で
1年半前まで営業していたという。
旧い建築は、現在の消防法には適合しないため
已む無く店をたたんだそうである。
今は、松阪から来たその主人が織物を織りながら
藍染の作品をギャラリーのように店先に並べて
販売しておられる。
古風な建物は、なんともいえない味がある。
茶店もかねているので、コーヒーを一杯注文。
時代が逆戻りしたような空気の中でコーヒーをすすったら
山本周五郎の小説の一言が浮かんできた。
ホテルに戻って、持参している『泣き言は言わない』をめくってみる。
泣き言はいわない (新潮文庫)

人間は生きているというだけで誰かの恩恵を蒙っている。
他人の造った家に住み、他人の作った米麦を食べ、
他人の織った着物を着る、日常生活に欠かせないあらゆる必要な品々が
すべて見も知らぬ他人の丹精によって出来たものだ。
ひとから物を借りれば、いつかは礼をつけて返さねばならない。
返せない借り物なら、それに代わるだけの事をするのが人間の義理である。
世の中に生きて、眼に見えない多くの人たちの恩恵を受けるからには、
自分も世の中に対してなにかを返さねばならないだろう。
『新潮記』山本周五郎

人間は一人では生きて行けない。自分の身の回りの人々だけでなく
見も知らぬ無数の他人のおかげで生きている。
他人の労働がなくては、米一粒食べることができない。
しかし、それを日々意識するだけの謙虚さを
なかなかもてるものではない。
物造りについて、話をしているうちにすっかり外は暗くなる。
開店間もない店を、近所の人が心配して通りがかりに覗いて声をかけていく。
ここには、そんな精神が息づいているのだなと
しみじみ感じた出会いであった。