美を求めること

開いたばかりの寄る辺なき花びらの上に、涙のようなしずくがひとつ光っていた。
雨上がりの梅林の、濡れた土の上には咲いて間もない花が散って、白い水玉模様を描いていた。

梅は、満開の姿よりも咲き始めがいい。
春の気配で戸惑うように一輪二輪と開いた花が、なんともいえず愛おしく思える。
冷たい冬の間、かよわい枝にためてきた香りと色を
握ったこぶしからふわっと放つ瞬間に、彼女は何を想うのであろうか


こうして、幾千万の花の中から一輪の花に出会い、一輪の花の姿に魅せられるとは...
不思議なえにしだな
不意に、悲しみとしかいいようのない感覚が胸にひろがる。
宇宙のなかで、自分とその花しか存在しないような一瞬に恍惚となる。

詩人は、自分の悲しみを、言葉で誇張して見せるのでもなければ、飾り立てて見せるのでもない。
一輪の花に美しい姿がある様に、放って置けば消えて了う、
取るに足らぬ小さな自分の悲しみにも、これを粗末に扱わず、はっきり見定めれば、
美しい姿のあることを知っている人です。
悲しみの歌は、詩人が、心の眼で見た悲しみの姿なのです。
これを読んで、感動する人は、まるで、自分の悲しみを歌って貰ったような気持ちになるでしょう。
悲しい気持ちに誘われるでしょうが、もうその悲しみは、不断の生活のなかで悲しみ、心が乱れ、
涙を流し、苦しい思いをする。その悲しみとは違うでしょう。
悲しみの安らかな、静かな姿を感じるでしょう。
そして、詩人は、どういう風に、悲しみに打ち勝つかを合点するでしょう。
   小林秀雄『美を求める心』


詩は書けないけれど、悲しみの静かな安らかな姿を感じた瞬間...


美というものは、本来ありもしない。
それは、美を見出した人の心の中にある。

見過ごしてしまえば、そこに美は生まれない。
あの一輪の美しさを、自分以外の誰が知ろうか...



最近読んだ本のなかで、石牟礼道子さんが中央公論で紹介されていた
水俣病患者の坂本清子さんのお母様が語った言葉が胸に刺さった。

きよ子は手も足もよじれてきて、手足が縄のようによじれて、わが身を縛っておりましたが、見るのも辛うして。
 それがあなた、死にました年でしたが、桜の花の散ります頃に。
私がちょっと留守をしとりましたら、縁側に転げ出て、縁から落ちて、地面に這うとりましたですよ。
たまがって(驚いて)駆け寄りましたら、かなわん指で、桜の花びらば拾おうとしよりましたです。
曲がった指で地面ににじりつけて、肘から血ぃ出して、
 「おかしゃん、はなば」ちゅうて、花びらば指すとですもんね。
花もあなた、かわいそうに、地面ににじりつけられて。
 何の恨みも言わじゃった嫁入り前の娘が、たった一枚の桜の花びらば拾うのが、望みでした。
それであなたにお願いですが、文(ふみ)ば、チッソの方々に、書いて下さいませんか。
いや、世間の方々に。桜の時期に、花びらば一枚、きよ子のかわりに、拾うてやっては下さいませんでしょうか。
花の供養に。

  石牟礼道子「花の文を―寄る辺なき魂の祈り」(「中央公論」二〇一三年一月号)

公害病で手足がねじ曲がり、不自由な身体になってしまった女性が、それでも桜の花に美を見出し
一枚の花びらを拾おうとした心...
彼女の眼にも、彼女にしか見えなかった美しさがあって、そこに幸福な一瞬があったのであろう...


風が吹くたびに、小さな花びらがはらはらと舞い落ちてきた。
土の上に広がる無数の花びらのなかに、花ごと落ちてしまった一輪を拾い上げ
甘い香りのするそれを胸のポケットにしまって、梅林をあとにした。