行きずり

磨りガラスの引き戸から、顔だけ出すと
おかみが、お客に頼んで席をひとつ空けてくれた。
神戸の下町...新開地の焼き鳥『八栄亭』
10人ばかりしか座れない狭い店内は、今夜も常連客で賑わっていた。

去年の4月に一度だけぷらっと立ち寄っただけなのに
「この前は、皮しか残ってなくてねえ...今日はまだいろいろありますね」
と、おかみに声をかけたら、その日のことをよく覚えていて
あの時ここで話しをした淡路島のお客さんの話をした。


創業100年の焼き鳥は、本当に美味い。
左隣は、会社帰りのサラリーマン3人組
右隣は、そろいの作業着を着た男女...
こちらから話しかける雰囲気でもなかったし、次々に客が店内を覗いては諦めて帰っていくので
焼き鳥を堪能して酒を二杯ほど飲んだら店を出るつもりだった。


右隣の作業着の男が、不意にこちらを振り向いて「小泉さんに似てますよね〜」と、親しげに話しかけてきた。
一瞬、どこの小泉さんかと思ったが...ああ髪型がね...
「あんまり言われたことないけどね」と笑いながらこたえた。


40前後の男の顔は、アンパンマンを実写化したらこれほど似合う顔はないだろうというくらいまんまるで
笑うと目が糸のように細くなる、愛嬌たっぷりの顔...
最近テレビで見かける女芸人に似た隣の女性は、結婚7年の奥さんだそうで、二人で工務店を営んでいるとのこと。
奥さんの出身地の徳之島の話から始まり、新開地という独特な街のこと、仕事のこと...
焼き鳥を食べながら、いろいろな事を話してくれた。
小さな会社で、経営はいつも大変なことばかりけれど、
子供がいないので、こうして夫婦でたまに美味しいものを食べに来るのが楽しみなのだと...
体格のいい二人の前には、食べ終わった焼き鳥の皿が20枚ほど積み上げられている。


客が何度か入れ替わり、焼き鳥のネタもなくなって店じまいに近づいたとき、
「これからどこか行かはるんですか?」と言われたたので
「バーで飲みなおして帰るかな...」と答えると
「いいバーがあるから、ご案内しますよ」と言う


さっき知り合ったばかりの夫婦と前になったり後ろになったりしながら
静かな夜の街をゆっくりと歩いていく...
酒を飲むこと以外、仕事もプライベートも何の共通点も見いだせない彼が
なんでこんなに自分を慕ってくれるのか...
人の出会いとは不思議なものだなと思う。
きっと、言うに言われぬ苦労もたくさんしているのだろうな...
不意に笑みが途絶えた瞬間の顔を見て、そんなふうに思う。
泣きたいような気持で働いて、そして小遣いができたら、夫婦でこうして飲みに出かける...

みんなが重い荷を負っている。境遇や性格によって差はあるが、
人間はみなそれぞれなにかしら重荷を負っている、
生きてゆくということはそういうものなんだ、そして道は遠い...。
 互いに援けあい力を貸しあってゆかなければならない、互いの励りと助力で、
少しでも荷を軽くしあって苦しみや悲しみを分けあってゆかなければならない。
自分の荷を軽くすることは、それだけ他人の荷を重くすることになるだろう。
道は遠く、生きることは苦しい、自分だけの苦しみや悲しみに溺れていてはならない。
   山本周五郎『つばくろ』


たった15分ほどの散歩が、とてもしあわせな映像として心に焼きつく...
そんな出会いが生まれる居酒屋は、いいもんだな。


たどりついたバーは、旧いビルの2階「上」という木の表札がかかっていた。
真っ暗な店内は凝った造りで、カウンターの中には、ボトルを収納している桐たんすがならんでいる。
内装も桐たんすも、40代くらいのマスターの手作りだという。



3人で改めて乾杯...
飲んで食べて....とりとめもなく話して...夜は更けていく
気がつくと、ホテルに戻る電車の終電の時間
割り勘の勘定をして夫婦に別れを告げて店を出ると
彼が送ると言ってついてきた。
阪神の地下改札の前で握手をして別れた。


改札を抜けても、ずっと笑顔で手を振っている。
見えなくなる前に、もう一度振り返る。
彼は手を振っている。こちらも笑顔でさよならと言う。
階段を降りはじめたら
何十年も付き合ってきた親友と今生の別れをしたような寂しさが
胸の底からじわじわと湧き上がってきた。