消えゆくもの 消えざるもの

昨日の初仕事は、トラブルを知らせる1通のメールから始まった。
夕方会社を出て自宅に寄り、終電で富山駅に着いた。

 

目を覚まして、カーテンを開けると、立山連峰が雨で霞んでいた。
レンタカーを借りて現場に向かううちに、気温は下がっていった。
トラブルを起こした箇所が、工場の屋上の設備であることがわかり
雨のなかで、装置のある部分を取り外し、メンテナンスをして復旧した。
防寒着もなく、数時間、薄い雨合羽だけだったので、体が芯まで冷え切った。

 

富山市内に戻った頃には、雨が雪に変わっていた。
いつもの立ち飲み屋「あ!イッセイ」で、今日のお薦めの鯨の刺身を食べていると
ふと思い出したように、店長のサントスが、この近くにある穴場の店を教えてくれた。
食べた後だったので少し迷ったが、いつまた富山に来れるかわからないので、
行くことにして勘定を払った。

 

富劇ビル…50年前に建てられた駅前の映画館

2階の映画館は既に閉鎖されてしまったが、1階にひしめくように入居している飲食街は、今でも営業している。

昭和のにおいをそのままに…

 

その店の入口には、両側に発泡スチロールの箱が積み上げられており
イチゲンの客は、絶対に入らないだろうという佇まい
入口の電灯は消えていたが、まだ9:30...

店内に灯りがついていたので、営業していると思い、幅の狭い引き戸を開けた。
七人ほどしか座れないカウンターの隅で、老人がひとり黙々と飲んでいた。
店主のお婆ちゃんが、腰が痛いから、今日はもう閉めようと思ったというので、
おでんを少しいただきたいので、一杯だけ飲ませてほしいとお願いして
入口に近いカウンターの角の席に座った。
焼酎が出てくる前に、黙って飲んでいた老人は店を出て行った。
どこから来たのかと聞かれ、横浜から仕事で来たと答えた。

 

彼女は、昭和10年富山県上市生まれの79歳。親父と同い年だなと思う。
ここで店を始めてから、もう50年ちかくになる。
ご主人は、もうずいぶん昔に亡くなられたとのこと
サントスの話しどおり、雑然としていて、いろいろな食材が干してあり
煤けた壁が店の歴史を物語っている。


しかし、今年の4月で店をたたまねばならないと、彼女が名残惜しげに呟く。
ビルの老朽化で、取り壊しが決まって立ち退きになったらしいが
新幹線が3月に開通するということもあるのだろう

 

カウンターの中のおでん鍋を覗き込んだだけで、美味しさが伝わってくる。
あまりにも種類が多いので、大根と手造りのつくねを注文
とろろ昆布をのせるのが、富山風かな...
50年煮詰め続けてきた、ありとあらゆる具材と出汁の味が溶け込んで
複雑でなんとも言えないやさしい味がする。

 

おでんを食べたら帰る約束だったので、勘定を聞くと
いいからゆっくりして行ってくれと言われ、席に座り直してまた飲み始める。
お婆ちゃんはにこにこしながら、思い出話を楽しそうにしてくれる。

店に来た客が思いを書き残してきたサイン帳に名前を書いてくれと言われ
感謝の言葉と名前を書いた。


一人で生きてきたんだな...
穴蔵のような、この狭い彼女の城のなかで...
そして、どれほどの人に、この幸せな気持ちを与えてきたのだろう
すごいことだな

 

幻魚(げんげ)の干物、ハタハタの一夜干し...
その他に、彼女が考案してきたオリジナルの料理が次々に小皿でカウンターに差し出される。
カニ味噌や、ぶりのハラスの部分などを独特の調理法で仕上げたつまみは、
どれも、なんともいえない素朴で深い味がする。
彼女の作った料理を、ゆっくりと味わいながら「滋味」というのは、こういう味のことを言うのだなと思う。
客を喜ばせたい一心で、丹精をこめて作り上げてきた味だ
もっとはやくに来たかったな...

でも、自分のような余所者が、地元の人に信用されるというのは時間がかかることなのだ。

この店がなくなる前に来られたことをしあわせなことと思うことだ。
しかし、こんな料理が食べられなくなるなんて...なんと寂しいことだろう。

 

新幹線が、この街にもたらすものは何だろう?
建設とか観光とかに関わる企業を潤すカネか...
そして、どこにでもあるようなえげつない看板が立ち並ぶつまらない街が作られ
若い人たちは、どんどん東京に出ていってしまうのだろうな...

 

あまりにも居心地がよくて、長居をしてしまったが
雪のなかをどうやって帰るのかもわからない彼女のことが心配で
2杯目の焼酎を飲み終わって店を出た。
耳を疑うほどの安い勘定だったので、おつりはいらないと言ったが
年をとって、もうお金は必要以上いらないからと言って、百円玉を渡された。
その小さな手に刻まれた皺を見て
ああ、なんと美しい人間の手なんだろうと思った。

 

消えてしまうんだな...こんな味わいのある店が...
ふと、先日読んだ宮本先生の『消滅せず』というエッセイが浮かぶ

いのちの姿

いのちの姿

 

京都建具の名人と呼ばれた人の死を目の当たりにして
人の死によって、その人が持つ技量や才能、そして人間性の善き特質も
消滅してしまうのかという問いに想いを巡らせていく。
最後に引用されている アリステア・マクラウドの小説の一節

「誰でもみんな、去ってゆくものなんだ」と父が静かに言う。
私は、父がサンタクロースのことを話しているのだと思っている。
「でも、嘆くことはない。よいことを残してゆくんだからな」
 アリステア・マクラウド著 中野恵津子訳『すべてのものに季節がある』より

ひとりの女性が、あの小さな店で生きてきた物語を思い浮かべながら
彼女が残してきた、たくさんのよいことを、想像しながら...
吹雪いてきた雪のなかを、ホテルに向かって歩き始めた。

 

 

 

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おまけ
現場に向かう途中で撮った雪景色