Hさんの訃報

Sさんから携帯にメッセージ...
「突然ですが、
 Hさんが日曜日に亡くなられたそうです」
と...
まさか...
1か月ほど前にもお元気な声を聞いたばかりだった。
「近いうちにお会いしましょう」と、
仰っていたのに...



Hさんとの出会いは、98年頃だったと記憶しているから15年ほどのお付き合いということになる。
岡山の香料メーカーで、脱臭装置の心臓部であるオゾン発生装置が修復不可能な故障をした。
エンジニアリング会社が代わりのオゾン発生装置を探して、たまたまムイカリエンテが受注した。
このとき、脱臭装置を納入した商社の担当であったHさんに初めてお会いした。
もう60歳をすぎて、嘱託のような立場だったと思う。
津山市にある、その香料メーカーに何度か同行し、東京でも打ち合わせでお会いした。
その仕事が完了すればお会いすることもないはずだったのだが、
父親と同年代のHさんとは、なぜか波長が合ったというか...それからもお付き合いが続いた。


Hさんは、若いころは材木の売買の仕事をされていたそうで
ロシアやカナダなどにも通っておられたとか...
60歳を過ぎても、精力的に仕事をされ
商社を退職した後も、ベンチャー企業や材木会社を渡り歩いておられた。
東京・神奈川・和歌山・三重・中国と仕事と共に移り住み
数年前からは、熊谷に住んで栃木の産業廃棄物処理業者に通っておられた。


2003年には、彼の紹介で京都の皮革染色工場の排水脱色の仕事をやらせてもらい
2004年...神奈川のオゾン発生器メーカーにおられた時には、
佐世保の水産加工会社の臭気対策のために実験をやるので付き合ってほしいと言われ
イカリエンテは失業中だったので、トラックに機材を積んで二人で交代で運転をして
一日で1200km走って佐世保まで行った。楽しい思い出だな...
2006年、鈴鹿に単身赴任しているときには、Hさんが滋賀に住んでおられたので
会いにいった。


その後も、2カ月か3か月に一度は電話をいただいた。
仕事のことで技術面のアドバイスをしてほしいという内容が多かった。
温和で謙虚な人柄が、電話口からも伝わってくるような温かい人だった。
あの滋味のある声も、もう聴けないのだな...


初めてお会いしたとき、ムイカリエンテは30代後半
仕事は最も充実して、自信にあふれていて勢いもあった時期だったが
40代に入って、いろいろなことが重なって失速し、転落ていった。
しかし、どんなときにも変わらぬのんびりした口調で語りかえられると、なんとなく安心できた。
最近はFacebookも登録されて、いつもムイカリエンテのブログもチェックして、心配ださっていた。


昨年の11月に78歳の誕生日を迎えられた日にお電話をしたが、
その時も、元気に現場を飛び回っておられた。


会社帰りにSさんにお電話をして、亡くなられたときのことを伺う。
2週間前、仕事中に突然倒れて入院
しばらくは意識があったようだが、数日前から意識を失い、2月3日日曜日に亡くなられたとのこと
ご家族はなく、おひとりだったので、翌日会社で葬式を出してくださったようで
連絡は近しい人にしかできなかったようである。


Hさんには、数限りなく励まされ、そして多くのことを教えていただいたけれど
何ひとつ恩返しもできなかったな...
お葬式にも出られなかったので、町田の立飲み屋で一人、焼酎を飲んで追悼。

死なないでいる理由 (角川文庫)

だれかが死ぬということは、そのひとのいのちだけに起こる出来事ではない。
そのひとに死なれたひとびとにとってもそれは重大な出来事なのだ。
個人のその身体が死体となったとき、
そのいのちをともに生きた者がそのいのちを亡きものとして認める。
そういう行為をもってやっとひとつのいのちは絶える。
「死とともに死者が誕生する」と言ったひとがいるが、その意味もそういうところにある。
いのちのもっとも基礎的な場面で、ひとはたがいのいのちを深く交えている。
この交感がいのちのなかを流れている。
からだはだれのものか、いのちはだれのものか、
これは、ひとがだれと生きてきたか、
だれとともに生きつつあるかという問いとともに問われねばならぬ問題なのである。
(中略)
ひとが生まれるのも、病むのも、死ぬのも、
みな単体の身体に起こる出来事であるかのように考えられ、
またそのようなものとして処置されるが、
ほんとうは誕生も病も死もみなひとのあいだで起こる出来事であるということ、
これがいのちについて考えるときの基本であるとおもう。
  鷲田清一『死なないでいる理由』