待たなくてよい社会

立春の朝...
自宅から駅に向かう道...
長い階段をあがって、いつもは右に折れるのに
今日は無意識に真っ直ぐの道を選んだ。
(どちらでも同じ距離なのだが...)
ふと右手の家の庭を見上げると
梅の花が開いていた。
待ちわびた春が、そこまでやってきているのだな..


「待つ」ということ (角川選書)

「待つ」ということ (角川選書)

待たなくてよい社会になった
待つことができない社会になった
待ち遠しくて、待ちかまえ、待ち伏せて、待ちあぐねて、とうとう待ちぼうけ。
待ちこがれ、待ちわびて、待ちきれなくて、待ちくたびれ、待ちわびて、
待ち明かして、ついに待ちぼうけ。
待てど暮らせど、待ち人来たらず....。
だれもが密かに隠しもってきたはずの「待つ」という痛恨の想いも、じわりじわり漂白されつつある。

ほとんどの人が携帯電話を持つようになって、待ち合わせの形も変わり、
待ちぼうけなどということがなくなった。
コンビニができて、店が開くまで待たねばならないということも少なくなり
図書館が開かなくてもパソコンで瞬時にいろいろなことが調べられるようになった。
かつては「待つ」ことがあたりまえだったことも、今では待たなくてもよくなった。
待たなくてよくなった分、いらいらも解消されたかといえば、そうでもない。
PCの性能が上がれば、数年前のバージョンの速さでさえいらつく。
昔は手紙が届くまで何日も待ったのに、今はメールが半日返ってこないだけでおかしいと思う。
待ちわびた人が現れたときの喜びがいかばかりであったか...
待ちどおしくて何度もポストを見に行った末に届いた手紙がどれほど嬉しかったことか...
「待つ」ことがなくなって、人は何か大事なものを失ってきたのではないだろうか?


鷲田清一氏の本との出会いはまったくの偶然だった。
本屋で『噛みきれない想い』というタイトルに惹かれ、手に取った。
「わたしは「いない」より「いる」ほうがほんとうによかったのか...。」
最初の一行にどきんとして、そのままレジに向かった。
http://d.hatena.ne.jp/mui_caliente/20100301
この本は2冊目
しっかり噛みしめて読もうと思っているので、まだ読み切っていないのだが
「待つ」という心の状態のなかに、大事なものが隠されているような気がして
少しずつ引用していきたいと思って、書きはじめた。

意のままにならないもの、偶然に翻弄されるもの、じぶんを超えたもの、
じぶんの力ではどうにもならないもの、それに対してはただ受け身でいるしかないもの、
いたずらに動くことなくそこにじっとしているしかないもの。
そういうものにふれてしまい、それでも「期待」や「希い」や「祈り」を込めなおし、
幾度となくくりかえされるそれへの断念のなかでもそれを手放すことなくいること、
おそらくそこには、<待つ>ということが成り立つ。

意のままにならないことにうろたえ、怖れている自分を見つめれば、
そこには<待つ>という姿勢は成り立っていない。
「期待」や「希い」や「祈り」を込めて、手放さずにいることが<待つ>ということであれば
そこには、どれほどの忍耐と執念がいることだろうか...

待つことは、偶然の(想定外の)働きに期待することが含まれている。
それを先に囲い込んではならない。
つまり、ひとはその外部にいかにみずから開きっぱなしにしておけるか
それが<待つ>には賭けられている。
ただし、みずからを開いたままにしておくには、閉じることへの警戒以上に、努めがいる。<待つ>は、放棄や放置とは別のものに貫かれていなくてはならないからだ。
(中略)<待つ>は、いまここでの解決を断念したひとに残された乏しい行為であるが、
そこにこの世への信頼の最後のひとかけらがなければ、きっと、待つことすらできない。
いや、待つなかでひとは、おそらくはそれよりさらに追いつめられた場所に立つことになるだろう。

待たなければならない。
いまここでの解決ができないことなど山ほどあるけれど...
「待つ」という行為のなかに、自然の...生命の...宇宙の大事なキーワードがあるように思える。
待たなければ春は来ない。
しかし、春に花を咲かせるために、梅や桜がその体内でどれだけの準備をし、エネルギーをため込んでいることか


先日、佐渡の古代杉の映像を見た。
500年もの間、毎年降り積もる5mもの積雪のなかで、じっと春を待っている。
雪の重さで枝をへし折られ、幹を捻じ曲げられても、じっと動かずに待っている。


「待つ」ことそのものが壮絶な戦いだった。
そして「待つ」ことは「願う」こと「信じる」ことに支えられている。
あの大木のように「待つ」ことができたら...


2010年春 和歌山 千畳敷海岸にて...