「道」を求める

急速に秋が来た。
寒さで早朝に目が覚める。
あの夏の暑さは、
どこに吸い込まれてしまったのか...
雨が降って、肌寒いくらいの一日。


 久しぶりのLOWSONロールケーキ 秋バージョン→


久しぶりに、小林秀雄の文章を読みたくなって、『本居宣長』をぱらぱらとめくる。
本居宣長〈上〉 (新潮文庫)

宣長が求めたものは、如何に生くべきかという「道」であった。
彼は「聖学」を求めて、出来る限りの「雑学」をして来たのである。
彼は、どんな「道」も拒まなかったが、他人の説く「道」を自分の「道」とする事は出来なかった。
従って、彼の「雑学」を貫道するものは、「之ヲ好ミ信ジ楽シム」という、
自己の生き生きとした包容力と理解力としかなかった事になる。
                          『本居宣長

そもそも、「ムイカリエンテへの道」というタイトルをブログに冠したのは
自分の生きるべき「道」を求めるためではなかったか...
宣長のそれとは、比べようもないが...
やはりそれでも、「道」を求めて、様々な書を読み、人に触れ、芸術に触れ...
生きている途上で起こる様々な事象に触れ...
それが「道」に連なっていくと信じて、書きはじめたように思う。
堪え難い(結局は自分の弱さ故であるが)現実に翻弄され、
いつしか、その心を忘れてしまった。
「之ヲ好ミ信ジ楽シム」という、生き生きとした包容力と理解力...を取り戻さねばならぬ。
力をつけなければならぬ。

堪え難い心の動揺に、どうして堪えるか。
逃げず、ごまかさず、これに堪え抜く、恐らくたった一つの道は、これを直視し、
その性質を見極め、これをわが所有と変ずる、そういう道だ。
力技でも難業でもない、それが誰の心にも、おのずから開けている「言辞の道」だ、
宣長は考えたのである。
悲しみを、悲しみとして受取る、素直な心さえ持っている人なら、
全世界が自分一人の悲しみと化するような、深い感情の経験は、誰にもあるだろう。
詞は、「あはれにたへぬところより、ほころび出」る、と言う時に考えられているのは、
心の動揺に、これ以上堪えられぬという意識の取る、動揺の自発的な処置であり、
この手続きは、詞を手段として行われる、という事である。
                              『本居宣長

「堪え難い心の動揺...その性質を見極め、これをわが所有と変ずる道」
「悲しみを悲しみとして受け取る、素直な心」
そう簡単にできることではないけれど
なんとなく、微かな望みが見えるようにも思える。
目をつぶらずに、見極めることだ...そして闘うことだ。


先週末、以前からの知り合いのT氏から、会社を手伝ってほしいとのオファーがあった。
最初は「チャンス到来」と思ったが、T氏と面会して話を聴いて事業自体には興味も持てたが
なんとなくしっくりこない。
挑戦しようという気持ちが途中で萎えてしまった。
そして、一昨日お断りした。


同じ転職でも、逃げ出すような気持ちがあったら、また失敗するだろう。
あくまでも挑戦、前向きな気持ちでの転職でなければ、また同じ失敗を繰り返すだろう。
会社の誤りについては、再度その違法性を訴え闘うことにした。今日の会議で第一声を発した。
その一点くらい糺さなければ、ここに来た意味がない。
危険に晒されている人たちを守るためにも...
自分がやらねば、誰もやることはないだろうから...