宮本輝のトークショーで知り合ったNさんは、谷崎潤一郎の研究をされている国文学者である。
著名な文学雑誌に掲載された、谷崎潤一郎に関する論文を九州から送っていただいた。
恥ずかしながら、谷崎潤一郎は未だに一冊も読了したことがない。
論文を読む前に作品を読まなければと思い、テーマになっている『卍』を読んだ。
『卍』は語り手でもある柿内園子と夫の柿内孝太郎、そして徳光光子と恋人の綿貫栄次郎の四人が
題名が暗示しているように四つどもえの愛欲の世界を繰り広げている。
作中の表現を借りると園子と光子の「異常なる経験」を中心に物語は展開している。
もちろん「異常なる経験」とは、園子と光子の同性愛を指していることはいうまでもない。
Nさん論文『谷崎潤一郎の嫉妬』より
関西の言葉は親しみやすいが、きれいな言葉という印象は持っていなかった。
しかし、この小説の上方言葉というのは、実に流麗で実に美しい。
東京の女は、大胆で、露骨で、皮肉や揚げ足取りを無遠慮に云うから張り合いがあるけれども、
『女』として見るときは大阪の方が色気があり、魅惑的である。
つまり私には、東京の女は女の感じがしないのである。
...たとえば猥談などをしても、上方の女はそれを品よくほのめかして云う術を持っている。
東京だとどうしても露骨になるので、良家の奥さんなどめったにそんなことは口にしないが
此方では必ずしもそうではない。しろうとの人でも品を落とさずに上手に持ってまわる。
それがしろうとだけに聞いていて変に色気がある。
『私の見た大阪及び大阪人』谷崎潤一郎
上方言葉から滲みだすなんともいえない色気が漂う。
女子技芸学校で知り合った園子と光子、語り手の園子は光子の美しさに惹かれ、彼女の絵を描こうとする。
友達になって自宅に招いた光子に体を見せてほしいと言う。
(光子の)体に巻きついているものをだんだんに解いて行きましたが、
次第に神聖なる処女の彫像が現われていきますと、勝利の感じがいつのまにやら驚嘆の声に変わって行きました
「ああ憎たらしい、こんな綺麗なからだしてて!うちあんた殺してやりたい」
わたしはそう云うて光子さんのふるてる手頸しっかり握りしめたまま、一方の手ェで顔引きよせて
唇持って行きました。
すると光子さんの方からも、「殺して、殺して...うちあんたに殺されたい」と、物狂おしい声聞こえて、
それが熱い息と一緒に私の顔いかかりました。見ると、光子さんの頬にも涙流れてるんです。
『卍』本文より
Nさんの論文は、この作品に一貫して流れる"嫉妬"をテーマにして、時代考証をしながら展開していく。
大正から昭和初期にかけての<変態>ブームや同性の心中事件という時代背景における
この作品の意義を展開されている。
『卍』が連載されていた昭和三年から五年はまさに<変態>ブームの絶頂期だった。
『卍』は<変態>ブームから派生して社会問題になった同性愛や女性同性愛者の心中事件といった
当時の一般大衆の関心事が散りばめられた作品といえる。
(中略)
女性同性愛者だけではなく、そこに男性も割り込んで愛欲入り乱れるところに谷崎独自の世界観があり、
『卍』の独自性になっている。
(中略)
『卍』は女性の同性愛から込み上がる嫉妬という情念であったものの、嫉妬という情念は誰の心の中にもある
誰もが持っている、いたって普通の情念の世界に、読者をひきいれようと志向した谷崎の戦略なのであった。
Nさんの論文『谷崎潤一郎の嫉妬』より
嫉妬とは、極めて厄介な心である。
女の嫉妬は家庭を滅ぼし、男の嫉妬は国を滅ぼすともいわれるように、
人間の心を熱狂させ、突き動かす大きなエネルギーになることもあるが...
我欲に固執する偏狭な心は、遂には自滅の道へとつながっていく。
『卍』でも、結末は四人がそれぞれ破滅への道へと転がっていく。
このような時代の後に、昭和の悲劇「太平洋戦争」が始まる。
戦争も極論すれば、根底には男の嫉妬があるようにも思える。
ムイカリエンテは文学のことはわからないけれど、
この作品の中には「嫉妬」という人間の心に対する警鐘が鳴らされているように感じた。